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320 11月16日 Ⅰ歴7-8ヘブ11アモ5ルカ1:1-38

歴代誌第一7章~8章……ベニヤミンを祖とするサウルの家系が記されています。サウルは失敗した王でしたが、神さまが特別に恵みによって、小さい部族とされてしまった中から王として立ててくださった存在であり、したがって彼はどこまでも、自分ではなく、主を誇りとするべきでした。私たちもまた、恵みによってイスラエルに接ぎ木されている存在として、そのように神の民に加えてくださった主を誇りとするべきです。 ヘブル人への手紙11章……信仰によって生きた先達の記録です。彼らは神さまに喜ばれていました。なぜならば、信仰があったからです。私たちは少しも疑わずに信じて願う信仰があるでしょうか? その信仰によってこそ、私たちは神さまに喜んでいただける存在とならせていただけます。 アモス書5章……主がご自身の民に求めていらっしゃるものは、儀式としての宗教行為ではありません。主が求めておられるのは公正と義によって生きることです。そのように生きていることは、隣人に対して愛とあわれみを実践していることによって証しされます、まことに信仰生活とは、愛の実を結んでこそ意味のあるものです。 ルカの福音書1章1節~38節……イエスさまを宿すということは、恵まれた人と言われる、ということです。マリアがイエスさまを胎内に迎えたことは神さまの一方的な恵みで成ったことですが、私たちもまた、主の一方的な恵みによってイエスさまを主と告白し、心の中にお迎えした存在です。そのような私たちのすることは、みことばどおりがこの身になるようにと、マリアのごとく従順な姿勢をお示しすることです。 <祈りの課題>私たちが今日もみことばを信じて、主の恵みに拠り頼んでみことばへの従順を果たす者となりますように。

319 11月15日 Ⅰ歴5-6ヘブ10アモ4詩148-150

歴代誌第一5章~6章……神の戦いというものは、神の子どもたちに勝利が与えられるべく展開するものです。しかし、その勝利の条件は、「神に拠り頼むこと」です。私たちが神なしで戦うならば、神さまは私たちに勝利を与えられることはありません。私たちにとってあらゆる場所で展開する戦いはすべて、神の栄光を顕すための戦いですが、その戦いにおいて勝利を得るためにも、私たちは神さまに拠り頼む必要があります。 ヘブル人への手紙10章……イエスさまの十字架のいけにえは完全です。私たちにはもはや、それ以上の罪のいけにえは必要ありません。しかし、その完全な罪のためのいけにえがささげられているからと、どんなことをしても許されるとばかりにことさらに罪を犯すようではいけません。私たちはキリストの十字架にとどまり、罪の赦しをつねにいただきながら前進する必要があります。 アモス書4章……イスラエルは今や、さばき主なる神さまに会う備えをしなければなりませんでした。神の民はその背きが明らかにされ、さばきに服するのです。私たちもまた、終わりの日にはさばき主なる主の御前に引き出されます。そのとき私たちは、背いた者としてさばきを受けるのでしょうか。それとも、イエスさまの十字架によって主とともに歩んだ者として評価していただけるのでしょうか。 詩篇148篇~150篇……踊りとともに、タンバリンと竪琴で主をほめたたえることが奨励されています。打楽器と弦楽器です。かしこまった賛美も結構なのですが、私たちはときに、踊ったりいろいろな楽器を奏でたりして主をほめたたえてもいいはずです。主が私たちのことを喜んでくださっている、その喜びがわがものとなります。 <祈りの課題>私たちがさばき主なる主の御前に恥ずかしくなく立てるように、日々イエスさまの十字架の御前に自分自身を差し出す者となりますように。

318 11月14日 Ⅰ歴3-4ヘブ9アモ3詩146-147

歴代誌第一3章~4章……ヤベツは痛みのうちに生まれました。そんな彼は、自分が痛みを覚えることがないようにと祈り、主はその祈りを聞いてかなえてくださいました。実に、痛むということ、痛みを覚えるということは、本来神さまが私たちに人間に願っていらっしゃることではありません。私たちは痛みのうちにあるとき、そのような自分であることを受け止めるとともに、その痛みから救い出してくださいと主にお祈りしてよいのです。主はその祈りを聴き届けてくださいます。 ヘブル人への手紙9章……イエスさまは十字架の上で私たちの罪を赦すためにこの世界に来てくださいました。しかし、やがてイエスさまは再臨されます。それは、イエスさまを信じ待ち望んできた私たちを救ってくださるためです。このことは、私たちが死ぬこと、死後さばきにあうことと同じくらい確実なことであり、私たちはイエスさまのゆえに、さばきから免れさせていただいています。 アモス書3章……主がイスラエルの民を救い出されたということは、その民が主の掟に従って歩むことが前提となっています。正義なる主のみこころにふさわしくないままで生きる自堕落な者を主がそのままにされることはありません。私たちは主の恵みによって選んでいただいているという自覚があるならば、その選びにふさわしく、主のみこころに従順であるように、主の恵みに拠り頼んでしかるべきです。 詩篇146篇~147篇……賛美というものは本来楽しいものです。それゆえに、賛美とは楽しさの中でささげられるべきです。歌詞の意味も意識せず、ただお勤めのように歌うだけのものを、果たして「賛美」と呼んでもいいものでしょうか。私たちは普段、習慣のように楽しくもなく賛美を歌っていないか、よくよく自分自身を省みる必要があります。 <祈りの課題>私たちにとっての賛美が、主との生きたコミュニケーションになり、喜びと楽しさに満ちたものとなりますように。

317 11月13日 Ⅰ歴1-2ヘブ8アモ2詩145

歴代誌第一1章~2章……系図の中で優先的に登場するのは、ダビデにつながるユダ族です。聖書においては、ダビデとその家系がそれほど優先的な位置にあるということです。そして神さまは、ダビデのすえとしてイエスさまを生まれさせてくださいました。 ヘブル人への手紙8章……神さまがイエスさまによって私たちに結んでくださった契約は、新しいものです。これこそが、古い契約に上書きされた有効なものです。私たちは、自分たちの犠牲や努力ではない、イエスさまの十字架の御業によって結んでいただいた契約によって、永遠に義なる存在としていただいています。 アモス書2章……主は異邦人に対するさばきをお告げになりましたが、それと並列する形でユダとイスラエルに対するさばきを述べていらっしゃいます。主は、ご自身のみこころにかなわない者に対しては、どのような身分にある者に対しても、容赦なくさばきを下されます。私たちがさばきから免れさせていただいているのは、ただ、イエスさまの十字架の恵みのゆえです。 詩篇145篇……私たちはこの地上において、特定の国の国民として生活していますが、それ以上に私たちは、キリストを王とする王国の民です。この王国は永遠の王国であり、私たちはこの王国にあって主をほめたたえます。今日もこの王国の民として生きることができますことに感謝しましょう。 <祈りの課題>イエスさまの十字架に感謝します。

316 11月12日 Ⅱ列25ヘブ7アモ1詩144

列王記第二25章……列王記第二の末尾の章は、ユダ王国が悲惨な終末を迎えたことを記録しています。しかし、そのいちばん最後に当たる部分は、エホヤキンが囚人の身分から回復したさまを描いています。主はご自身の時に、ご自身の民を回復してくださるお方です。私たちがもし、主の懲らしめにあったような悲惨な身の上になっていたとしても、それで終わったと思って絶望してはなりません。主は私たちが悔い改めるならば、必ず回復を与えてくださいます。 ヘブル人への手紙7章……イエスさまは永遠の祭司、完全な祭司です。私たちはこのお方のただ一度のいけにえ、十字架といういけにえによって、完全なものとしていただけます。私たちのすることは律法主義でみことばを守り行うことではありません。みことばを完全に守り行なってくださったイエスさまとの交わりによって、みことばを守り行う者へと変えていただくこと、これが私たちの課題です。 アモス書1章……主のさばきは、ご自身のおきてに背いて行動するすべての者に臨みます。すべてを見通される主の御目を逃れる者はだれもおらず、したがってそのさばきを逃れることのできる者はだれもいません。私たちは主のみことばをお聴きしているというならば、そのみことばにかなった生き方をして叱るべきであり、もしみこころに背いていることに気づかされたならば、悔い改める必要があります。 詩篇144篇……私たちは主の御目から見れば「異国人」に取り囲まれて生きています。「異国人」は初めから主のみことばに従って生きることをせず、その語ることも、生きる法則も、みな偽りです。私たちは彼らにとっての常識に染まり、それを自分たちにとっても常識と受け取って、神さまのみことばに従わないことの言い訳にしてはなりません。私たちはこのような反逆の民(異国人)の中にあって、主に守っていただいて、主にお従いすべき存在です。 <祈りの課題>守り行うことが困難なみこころが示されても、主の恵みによって守り行わせていただく私たちとなることができますように。

315 11月11日 Ⅱ列24ヘブ6ヨエ3詩143

列王記第二24章……ユダの亡国に至る記述ですが、エホヤキムの時代にユダが攻撃されたことは、「ユダを主の前から除くという主の命による」と総括されています。これは、ユダ自身が主を自分たちの前から除き、偶像の神々を慕い求めたゆえです。実に、偶像礼拝という貪り、貪りという偶像礼拝を捨てない者は、主がご自身の御前から捨てられるということを、私たちは恐れをもって受け止める必要があります。 ヘブル人への手紙6章……イエスさまを信じてから堕落してしまうならば、そのような者はもはや神に立ち帰ることはできない、という、実に恐ろしい警告のみことばが書かれています。しかし、私たちはこのみことばに震え上がるのではなくて、救いにつながること、すなわち、聖徒に仕える教会生活を主が覚えておられるということを心に留め、今日もイエスさまの十字架の完全な贖いの事実に拠り頼みながら、積極的に主とそのからだなる教会に仕える生き方をしてまいりたいものです。 ヨエル書3章……終わりの日の主の民の回復が語られています。主の民はひどい虐げにあいました。しかし主は、ご自身の民の味方でいらっしゃるので、そのような目にあわせる者たちにはてきめんにさばきを加えられ、民を救い出して、御国に永遠に住まう者としてくださいます。私たちは異邦人でしたが、この民とともに御国を相続する者としていただきました。 詩篇143篇……私たちはときに、まるで自分が主のさばきにあったかのように苦しい目にあいます。しかし私たちはそのようなとき、すべきことがあります。それは、自分にとっての昔の日々、主が自分になしてくださったすべてのみわざに心を留めることです。主は私たちのことをずっと愛してこられ、よいことばかりをしてくださいました。それがよくないことと考えるのは、私たちの受け取り方が肉的になっているため、サタンの惑わしにあっているためです。苦しみの中にあって私たちが主の御名をほめたたえることを学ぶなら、主はそこに大いなるご自身の栄光を顕してくださいます。 <祈りの課題>私たちが今日も、救われている者としてふさわしく主にお仕えする者となりますように。具体的にどのようにお仕えすべきか、祈って示していただきましょう。

314 11月10日 Ⅱ列23ヘブ5ヨエ2詩142

列王記第二23章……ヨシヤの宗教改革は徹底したものでした。彼が主の宮をきよめるためにどれほどのことをしたかが、実に多くの紙面を割いて記述されています。しかし、主はなおもマナセのゆえに国と民族に注がれた怒りを撤回されませんでした。やはりこの国は滅亡に向かっていました。しかし、ヨシヤのしたことは意味がないことではありません。ヨシヤの治世下においては間違いなく、ユダの民は幸福でした。私たちもこの世界が滅亡に向かっていることを知っていますが、だからといって何もしないようではいけません。私たちは今日、目の前の偶像礼拝と貪りを除き去り、主が統べ治める神の国を少しでも拡大してまいりたいものです。 ヘブル人への手紙5章……キリストが永遠の救いの源であるというのは、9節のみことばによれば、キリストに従うすべての人にとってです。永遠の救いの条件は、キリストに従う、ということです。キリストの救いはキリストに従っていない人にも臨んでいると考えてはなりません。私たちはそれゆえにキリストを宣べ伝え、人々の前にキリストに従順である生き方を示していくのです。 ヨエル書2章……世の終わりは主が怒りをもって臨まれる時です。それが臨むときに耐えられるものはだれもいません。しかしそのような中にあって、主は私たちも含め、人々がご自身に立ち帰るように救いというものを備えてくださいました。私たちが心から悔い改めるならば、主は私たちを赦し、私たちを受け入れてくださいます。私たちはその恵みの中にいま生きています。 詩篇142篇……主は私たちに、ご自身に向かって「叫ぶ」祈りを求めていらっしゃいます。私たちは「叫ぶ」ほど主を慕い求めていますでしょうか。私たちは自分の心に目を向けてみるとき、自分たちがほんとうはとても傷ついていて、孤独であることに気づかされるものです。しかし主は私たちを捨てて孤児にはなさいません。私たちの叫ぶ祈りに応えてくださり、私たちとともにいてくださり、傷をいやしてくださいます。 <祈りの課題>この世界からさらに多くの人が選ばれ、キリストを信じ受け入れますように。

313 11月9日 Ⅱ列22ヘブ4ヨエ1詩140-141

列王記第二22章……ヨシヤ王の時代、神殿から律法の書が見つかり、それまで律法を粗末にしていたゆえに主の怒りが国に臨んでいたことに気づかされた王は、悔い改めました。主はその悔い改めを受け入れてくださいました。みことばをなおざりにするということは、それだけ、主の怒りを招くことにつながります。私たちはいち早く、みことばをお読みして主に立ち帰る者となる必要があります。 ヘブル人への手紙4章……みことばとはただ聞くだけのものであってはいけません。聴いて守るものです。しかし、みことばを聴いて守る力というものは、本来私たちにはなく、それゆえに、みことばの高い水準が私たちに突きつけられるとき、私たちはその力がないゆえに悲しみます。だからこそ私たちは、その力を与えていただくために大胆に主のみもとに出ていくのです。 ヨエル書1章……私たちがいま享受している栄えというものは、この世界をおさばきになる主の怒りの日が臨むとき、すべては滅ぼされます。ゆえに私たちは、この世界の目に見えるものがすべてとばかりに、この世の富やこの世の安定を求める生き方ばかりをしてはいけません。私たちの手にあるものはすべて主の持ち物であることを認め、主にご栄光をお帰しする生き方をしてまいりたいものです。 詩篇140篇~141篇……「正しい人が……頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように」とありますが、私たち主の民は、主からの油注ぎで戒められる存在です。実に油注ぎとは、私たちの能力を高めて主と関係ない生き方をさせるものでは決してなく、かえって、私たちを戒め、肉の力を制限するものです。しかしそれは、私たちにとっては喜びであり、感謝なことです。 <祈りの課題>私たちがこの世の富よりも主のご栄光を求める生き方をしていきますように。

312 11月8日 Ⅱ列21ヘブ3ホセ14詩139

列王記第二21章……マナセが行なった偶像礼拝の施策は、その後ヨシヤのような善王が現れても回復することができなかったほど、ひどいものでした。神の民のリーダーがいかなる姿勢で人々の上に臨むかということが試みられています。もし、主にお従いしない歩みをするならば、それゆえに刈り取ることになる悪い実はどれほどのものでしょうか。私たちが主にお従いするのは、のちの世代のためでもあります。 ヘブル人への手紙3章……私たちが心を頑なにしてはならないのは、今日というこの日に、主のみことばが語られているからです。私たちが主のみことばを聴いたならば、主に求められていることはただひとつ、そのみことばに従順であることです。私たちはいつでもみことばを聴いて、それにお従いできるように、へりくだっている必要があります。 ホセア書14章……主は背信の者がまことに悔い改めるならば、その者を赦し、受け入れてくださいます。主はもちろん、万物をおさばきになることによってその権威を満天下に現されるお方ですが、このお方が特別に選んでおられる存在は、主に悔い改めて立ち帰るかぎり、決してさばかれることがありません。私たちもその、特別な選びと赦しの恵みをいただいたひとりです。 詩篇139篇……主は私たち一人ひとりのすべてをご存じのお方です。私たちにとって主の御目に隠れていることは、ひとつとしてありません。それなのに私たちはまだ、この期に及んで御顔を避けてはいないでしょうか。都合が悪くなると、まるで自分が御前にいないかのように考えたり、語ったり、振る舞ったりしてはいないでしょうか。しかし主は、そのような私たちの一挙手一投足さえ、すべて見ていらっしゃいます。私たちはただ主に降伏することあるのみです。 <祈りの課題>私たちがいつ、どのような時も、主のみことばに耳を傾けることができますように。その謙遜がつねに与えられますように。

311 11月7日 Ⅱ列20ヘブ2ホセ13詩137-138

列王記第二20章……祈りは聴かれます。日時計の影があとに戻るような、現代科学をもってしてもその仕組みがわからないような恐るべきみわざを示されてでもヒゼキヤの祈りに応えてくださったように、神さまは私たちの祈りが、人間的にどんなに考えても不可能に思えるようなことであっても、みこころにかなうものであるかぎり、必ず応えてくださいます。主は私たちに対し、その信仰を働かせて祈ることを求めていらっしゃいます。 ヘブル人への手紙2章……イエスさまが肉体をとってこの世界に来られたのは、御使いではなくて人を救い出してくださるため、すなわち、私たちのことを救い出してくださるためでした。ゆえに、私たちにとってもっとも大事なことは、私たちを救い出してくださったイエスさまの十字架の御業です。いちばんないがしろにしてはならないことです。 ホセア書13章……荒野とは主に拠り頼むように鍛えられる場所ですが、主は私たちのことをあわれんでくださり、私たちが苦しむことのないように、安定した環境に導いてくださいます。しかし私たち人間は恩知らずにも、その安定した環境の中で、かえって主から離れる道を選びます。私たちは安定した環境に置かれているかもしれませんが、そのような中で私たちは、主を見失うことなく、たえず主と交わる者となる恵みがあるように祈ってまいりましょう。 詩篇137篇~138篇……主は高くあられるお方ですが、低いところにある者に目を留めてくださり、引き上げてくださるお方です。それゆえに主は偉大なお方です。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰に入れていただいたゆえに、さばかれることがないばかりか、主とともに統べ治める者としていただいています。今は低いところにいるようでも、世の終わりには、いと高き天国にまで引き上げていただく、それが私たちです。 <祈りの課題>今日も、どんなときも、イエスさまの十字架を大事にして生きる私たちとなりますように。

310 11月6日 Ⅱ列19ヘブ1ホセ12詩135-136

列王記第二19章……神の民イスラエルの敵は、自分たちがまるで全能の存在であるかのように高ぶっていました。しかし、彼らの振る舞いはすべて、主が世の初めからそうなるように計画されていたことでした。主の民の敵は、いかにも自分が世界の中心であるかのように振る舞い、また、そのように喧伝して、私たちのことを脅かします。しかし、私たちは彼らを恐れてはなりません。彼らのこともまた、主が滅ぼされるからです。 ヘブル人への手紙1章……私たちが生きているこの世界は、御子イエスさまが再び来られるのを待つばかりの「終わりの時」です。この時代において神さまは、私たちに「御子によって」みことばを語られました。ゆえに、聖書はすべての箇所が「御子によって」語られていると私たちは受け取るべきで、「御子によって」聖書のみことばは解き明かすことができます。 ホセア書12章……イスラエルの民が主の御前に頑なであったのは、その先祖であるヤコブから始まっていたことでした。しかしヤコブが主に砕かれ、ほんとうの意味で主の祝福を受け継ぐ者となったように、イスラエルは今こそ、主の懲らしめを受けて砕かれるべき時を迎えていました。みことばに登場する人物が主のお取り扱いを受けて成長したというその記録は、私たちにとって大いなるモデルとなるもので、私たちもそのようにして成長して主のご栄光を顕す者です。 詩篇135篇~136篇……主の御力、ご主権の臨まない領域は、世界のどこにも存在しません。主とその民である私たちのことを敵とみなすような者たちのただ中にも、主は働いておられます。ゆえに彼らもまた、自分たちの信仰の対象を捨てて、まことの神さまを信じ受け入れなければなりません。私たちはこの主の偉大さの前に今日もひれ伏し、主の御名をほめたたえるものです。 <祈りの課題>大いなる主のご栄光が今日も全世界に現されますように。

309 11月5日 Ⅱ列18ピレホセ11詩132-134

列王記第二18章……モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇は、それを仰ぎ見ると生きることができたもので、はるかのちの日のイエスさまの十字架を象徴していました。しかし、それがネフシュタンなどという妙な名をつけられ、民の偶像礼拝の対象になっていたのだとすれば、それはその青銅の蛇に込められた主のみこころが激しく変質させられたということであり、もはやそれは存在する必要がなくなりました。いや、むしろ、存在することによって、民は正しく主を礼拝することができなくなっていました。そのときには勇気をもって、神の民のリーダーは後生大事に取っておかれたものでも打ち壊す必要があります。私たちも思い出の品がもし主との交わりを妨げるようなことがあるならば、それを捨ててでも、主との交わりを選べるようになれれば素晴らしいことです。 ピレモンへの手紙……人がともに主を信じ受け入れるということは、人間関係を新たな段階へと導きます。人間的な主従関係から、主にあって愛し合う関係へと昇華させます。私たちはときに、教会の中に人間関係の問題が生じ、苦労することがあります。それは多くの場合、ほかの兄弟姉妹よりも自分の存在や権利を主張しようとする信徒が引き起こす存在です。しかし、その問題を抱えたどうしがどちらもともに主の御前にへりくだり、自分よりも主を大事にし、その結果、ほかの兄弟姉妹を大事にすることを学ぶならば、教会の中の人間関係はさらに高い段階へと成熟します。 ホセア書11章……主はどこまでもイスラエルを愛されましたが、イスラエルはその愛を拒み、背を向けつづけました。それゆえに彼らは神さまから相当な懲らしめを受けなければなりませんでしたが、神さまはイスラエルを捨て去ることはなさいませんでした。なおも愛し、憐れんでくださっているからです。私たちも神さまに背を向けるような罪人です。しかし神さまはそれでもなお、私たちのことを諦めずに愛してくださっています。私たちはこの神さまの愛に、何をもってお応えすればいいのでしょうか。 詩篇132篇~134篇……主にある兄弟姉妹がともに集い、生きる、主の共同体を形づくること……聖霊の油注ぎが教会にあることは、そのように、ともに集って愛し合う私たちのことを主がご覧になり、祝福してくださるところから始まります。私たち教会は何ものでしょうか? そこに集う者同士が互いのことを思い、祈り合い、愛し合い...

308 11月4日 Ⅱ列17テト3ホセ10詩129-131

列王記第二17章……北イスラエル王国の滅亡と、それに引きつづいて諸民族が続々とその首都サマリアに入植した様子です。主がご自身の民と結ばれた契約は、ただ救い主なる主だけを恐れ、主だけを礼拝せよ、というものでした。しかしイスラエルの民にせよ、その後に入植した者たちにせよ、主を礼拝しているようで、実は異邦の神々を同時に礼拝する(すなわち、主だけを礼拝せよという主のみこころに反することを行う)ということをしていたのでした。私たちもすべきことは、主だけを礼拝することです。主以外のものも同時に大事にしようという、私たちの中の貪り(偶像礼拝)を除き去ることです。 テトスへの手紙3章……分派をつくるということは、決して推奨されるべきことではありません。その母体である教会が、聖書的に健全であるならばそうです。私たちのすることはそのキリストのからだなる教会が健全に保たれるべく、重箱の隅をつつくような神学的議論に終始するのではなく、主を信じている者にふさわしい、よいわざに励むことです。 ホセア書10章……偶像礼拝に対する究極のさばきが臨むさまが、イスラエルの口による恐ろしいことばで表現されていますが、このことばはイエスさまが、十字架に向かう道の沿道で泣き叫ぶ女性たちに向かって語られたみことばです。人の罪はまことに偶像礼拝、イエスさまの十字架によらずしては赦されない罪であり、この罪を十字架の前に悔い改めないならば、私たちは永遠に滅ぼされるという究極のさばきを受けます。 詩篇129篇~131篇……主が恐れられるべきお方なのは、罪人をさばかれるさばき主であられるからだけではありません。その罪を完全に赦してくださるお方であるからです。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって、罪を完全に赦していただいた存在であり、それゆえになおさら、主を恐れつつ罪から遠ざかって生きていくべきです。 <祈りの課題>私たちが罪を避け、よいわざに励んでいくことができますように。

307 11月3日 Ⅱ列16テト2ホセ9詩126-128

列王記第二16章……アハズ王のしたことは、みこころにより定められていた主の宮、麗しい御名の置かれた主の宮を、自分勝手に壊していったということです。アッシリアの脅威にさらされていたという事情はあったものの、アハズのしたことは、神さまよりもアッシリアを恐れたということで、その結果、神さまの御名の麗しさをないがしろにした、ということです。私たちもまた、身の回りの大小の事情を神さまを礼拝することよりも大きく見て、神さまの御名をないがしろにしてはいないでしょうか。 テトスへの手紙2章……恵みというものは、イエスさまに罪を赦されてラッキー、とばかりに、自分勝手に生活するためのものではありません。むしろ、そのような不敬虔とこの世の欲を捨て、慎み深く、正しく、敬虔に生活することをこの世において実践するためのものです。私たちが神の恵みを悟るならば、私たちの生活が変わります。 ホセア書9章……主の民は例祭をするように、宗教行為をすることはします。しかし、実際に彼らのしていることは、主から離れ、偶像礼拝の貪りにふけることでした。主はそのような者をご自身の御国から追放されます。私たちも、主の恵みによって救っていただいた者ですが、その恵みを軽んじ、自分勝手なことをすることから離れないならば、主のお心はどうなるでしょうか。私たちはつねに悔い改める必要があります。 詩篇126篇~128篇……種入れの種、は、食べるための種も底をつき、最後の可能性を信じて蒔く種です。私たちはその種蒔きをするとき、涙を流すほど苦しみ、また、悲しみます。私たちがそれでも種を蒔くのは、その向こうに収穫を与えてくださる主を信じるからです。私たちも今、主のための労苦で悲しんでいるかもしれません。しかし主は、必ずその労苦に報いてくださいます。 <祈りの課題>今日の労苦に主が報いてくださるという信仰を働かせますように。

306 11月2日 Ⅱ列15テト1ホセ8詩123-125

列王記第二15章……北イスラエル王国の黄昏においては、ゼカリヤ、シャルム、メナヘム、ペカと、続々と王が殺されてクーデターによって次の王へと王権が移譲されていきました。これは、ダビデ以来(一つの例外を除き)脈々と王位が引き継がれていった南ユダとは対照的です。そもそも王国の成立からして金の子牛礼拝から始まった北イスラエルは、主のあわれみによって辛うじて生きながらえていましたが、その罪過が主の御前にあまりに積み重なったならば、それに対するさばきも必ずあるもので、それは避けられません。私たちの住む世界も主のあわれみによって保たれていますが、いつかは主がこの地の人間に報復される日が来ます。そのしるしは、この世の権力が次々とさばかれ、そのあとに立つ権力もまた反キリスト的であるところに現れます。 テトスへの手紙1章……長老にせよ監督にせよ、その第一の条件は「非難されるところがない」ということです。私たちクリスチャンは赦された罪人であり、地上の歩みには多くの罪が伴うものですが、その罪をイエスさまの十字架の前に差し出して悔い改めもせず、そのままにしているならば、そのような人の歩みは非難されるものとならないでしょうか。それでは長老や監督のような教会指導者にふさわしいとは言えません。キリスト教会に対する反対者は重箱の隅をつつくように粗探しをして、指導者をその地位から引きずり降ろそうとします。それゆえになおさら、私たちは日々自分自身をキリストの十字架の御前に差し出すことを学ばなければなりません。 ホセア書8章……神さまを忘れ、偶像礼拝に走るものに対する神さまからの報酬は、滅亡です。神さまは彼ら主の民が滅びないように何度もみことばを語り、チャンスを与えてくださっているのに、民は主から離れ、偶像の神々をこそ大事にする道を選びました。その結果彼らは主が警告されたとおりに、悲惨極まる形で滅亡しました。私たちも、今まだ自分たちが滅ぼされていないからと、まだ罪にふけったりしてはいないでしょうか? それは、御怒りをもって全地を滅ぼすさばきを下される神さまのことを、ほんとうには恐れていないということを意味します。速やかに悔い改め、その行いから離れるべきです。 詩篇123篇~125篇……悪魔に魅入られた勢力はいつでも、弱い者たちを食いつくすことに飽くことを知りません。私たちも彼らの飽食の対象であり、いつ滅ぼ...

305 11月1日 Ⅱ列14Ⅱテモ4ホセ7詩120-122

列王記第二14章……ヤロブアム2世は悪い王でした。その治世下にあったイスラエルも暗黒のうちにありました。しかし神さまは、イスラエルを憐れみ、その苦しみのゆえに特別な助けをくださいました。私たち主の民も指導者が聖書的ではない指導をするために苦しむこともあります。しかし主は私たちのことを憐れんでくださり、必ず顧みてくださると信じましょう。 テモテへの手紙第二4章……もしクリスチャンが肉的になったならば、聖書的に健全な教えを聞くことに耐えられなくなります。悔い改めに至るために自分の罪があらわになることが受け入れられないからです。そういう者たちにとって聴きたい聖書の教えは、罪の指摘のない、祝福ばかりが説かれたまったく甘口のメッセージでしかありません。私たちはそれではいけません。どんなに厳しくても、身を切られるような思いになっても、悔い改めに至る真理の教えによって養われる必要があります。 ホセア書7章……主の民の頑なさというものは、主ご自身がその民を贖い出そうとしていらっしゃるのに、その主のみこころに耳を傾けないところにあらわれていました。私たち主の民にとって唯一の贖いは、イエス・キリストの十字架の贖いです。父なる神さまはイエスさまの十字架によって、どれほど人を救い出そうしていらっしゃることでしょうか。しかし、人は頑なで、この唯一の救いの道を拒否してはばかるところを知りません。それでも私たちに向けて手を差し伸ばしてくださっている主に立ち帰るならば、その人は幸いです。 詩篇120篇~122篇……主はつねに私たち主の民を守ってくださるお方です。私たちが今平安ならば、それは今この瞬間にも、生きておられる主が私たちのことを守ってくださっているからです。もし、私たちが嵐のような厳しさの中に置かれたならば、私たちは恐れることなく、つねに私たちのことを守ってくださる主に拠り頼む者となりたいものです。 <祈りの課題>この世界のひとりでも多くの人が、主に立ち帰りますように。そのために主が私たちのことを用いてくださいますように。

304 10月31日 Ⅱ列13Ⅱテモ3ホセ5-6詩119:145-176

列王記第二13章……エリシャの遺骨が死んだ人をよみがえらせた、ということは、すでに天に移された人々の記録である主のみことばが、霊的に死んでいる人を永遠のいのちに生かすものであるということを象徴しています。私たちは本来、罪と咎の中に死んでいた者でした。しかし私たちはみことばをとおしてイエスさまに出会い、永遠のいのちに生かしていただき、今なお日々みことばをいただいていのちの中にとどまるものです。 テモテへの手紙第二3章……終わりの日にはクリスチャンと呼ばれる人々の中に、自己中心に端を発するきわめて不敬虔な行いにふける者たちが現れ、キリスト教会の中で幅を利かせるようになります。彼らにたぶらかされる者は一定数教会の中に現れるものですが、そのような者は学ぶことは好きでも、真理を知るに至りません。その学びがとても自己中心で、実際には聖書の真理によって悔い改めに至ることを拒否しているからです。私たちは果たして、日々悔い改めに至るためにみことばの学びに取り組んでいますでしょうか? ホセア書5章~6章……神さまは形式的な宗教行為をお喜びになりません。私たちが真実の愛に生きることを喜んでくださいます。しかし、真実の愛を実践することは、宗教的な義務を果たすような行動をすることとは比べ物にならないほど難しいことです。私たちには愛を行う力はありません。それゆえに、私たちは愛なる神さまに拠り頼むのです。 詩篇119篇145節~176節……私たちはみことばをお読みするとき、この世の何にもまさる期待を抱いてみことばに向かっていますでしょうか? まことに、みことばから真理を教えていただくことは、大きな獲物を得るようなものです。創造主なる神さまは、私たちのために大いなる獲物を用意してくださるようにみことばの真理を私たちの前に用意してくださり、みことばをお読みするたびに喜びを味わわせてくださいます。 <祈りの課題>私たちが日々期待を持ってみことばをお読みすることができますように。

303 10月30日 Ⅱ列11-12Ⅱテモ2ホセ3-4詩119:121-144

列王記第二11章~12章……主の宮に忠実だったヨアシュが結局はどのような態度を取るか、主はアラムの王ハザエルを用いて試されました。ヨアシュはハザエルに主の宮の黄金や宝物、すなわち主のものとして聖別されたものを貢ぐことによって決着をつけました。このことは、ヨアシュのそれまでの主の宮に対する功績をぶち壊しにするものでした。私たちも、かつて主の御前にどのような態度でいたかが問われるのではありません。「今現在」どうであるかです。 テモテへの手紙第二2章……ことばについての論争はそれに参加する者を滅ぼします。私たちはそのような論争にはまりやすい弱い者であることを認め、また、そこから救い出されるように、ことばの次元で争うのではなく、いかにしたらみことばを生活に適用し、主のみこころを実践することができるかを求めていく必要があります。 ホセア書3章~4章……もし、自分の妻が姦淫したらと思うと、夫はいてもたってもいられなくなるでしょう。しかし神さまはまさにそのような裏切りを被られたのです。本来ならば、偶像に走った者たちはそれゆえに神さまの怒りを受けるべき者でした。イエスさまの十字架は、そのような赦されざる罪を赦していただくために、絶対唯一必要なもので、私たちはイエスさまの赦しを通ってようやく、御父の御前に行くことができます。 詩篇119篇121節~144節……私たちにとって敵というものは、神さまのみことばを忘れている者です。彼らにはそもそも神さまのみことばがうちにありませんし、それゆえ彼らは、価値観も生きる指針もみこころから離れ、行いも到底みこころにかなうものではありません。しかし神さまは、そのような彼らのことでどれほど心を痛めておられることでしょうか。私たちがそのような者たちの中から恵みによって救われていることに感謝し、彼らもまた、そのような神への反逆から救いに導かれるように、敵を愛する祈りをささげてまいりたいものです。 <祈りの課題>みことばを日々学び、悟らされたみことばを実践していく私たちになりますように。

302 10月29日 Ⅱ列10Ⅱテモ1ホセ2詩119:97-120

列王記第二10章……エフーは主による聖別のわざを取り行なったという点においては、よくやりました。主ご自身もそのこと自体は評価してくださいました。しかしエフーは、ヤロブアム以来の金の子牛礼拝から離れることはありませんでした。ゆえに、ヤロブアム自身の罪であり、北イスラエルが宿痾のごとく抱えていた罪から離れることはなかったのでした。私たちは目に見えるところで従順を果たしているからと満足していてはなりません。私たちがなお後生大事に取っておいている偶像(むさぼり)があるならば、そこから離れさせていただくように祈って取り組む必要があります。 テモテへの手紙第二1章……13節に注目します。私たちクリスチャンの歩みは、信仰と愛の歩みです。信仰を働かせて、神と人への愛を実践する歩みです。その歩みをするために、健全なことばなるみことばを手本とする必要があるのですが、その手本となるみことばは、パウロがテモテに伝授したように、霊的なリーダーが後学に授けるものです。私たちクリスチャンにとっての成長とは、後に続く人たちが信仰と愛という点において霊的に成長するため、手本となることです。 ホセア書2章……人は神さまに対してあまりに恩知らずです。神さまは私たちを愛されるゆえにあらゆる恵みをくださっているというのに、その恵みがあたかも偶像の神々から来ているように信じ振る舞い、神さまを無視するゆえです。そのことをほかならぬ主の民がしたのでした。私たちはどうでしょうか? 私たちは何をしても赦されるからと、主を無視して貪りという名の偶像礼拝に身を焦がしてはいないでしょうか? 詩篇119篇97節~120節……みことばは人を賢くします。私たちは師匠や年長者に教えられますが、人を賢くするのは究極的には、人間どうしの上下関係によるものではありません。私たちは人を師とするのではなく、キリストを師として歩み、キリストの御口から出るひとつひとつのことばによって賢くなります。今日もみことばをお読みして知恵が増し加えられたことに感謝しましょう。 <祈りの課題>後に続く兄弟姉妹にとって信仰と愛の手本となることができますように、私を成長させてください。

301 10月28日 Ⅱ列9Ⅰテモ6ホセ1詩119:73-96

列王記第二9章……主は侮られるお方ではありません。主から偶像の神々に民心を向けた者は、北イスラエルの王であろうと南ユダの王であろうと、滅ぼされました。さらに、そのように民心を偶像に向けた黒幕であったイゼベルも、悲惨な死に方をして滅ぼされました。私たちは偶像の支配するようなこの時代において、主から託されたみことばを語るべく召された者たちですが、この苦しみばかりの世において、しかし主は私たちを苦しめる者たちに相応のさばきを下してくださいます。このことを私たちは忘れずに、今日の働きに忍耐してまいりたいものです。 テモテへの手紙第一6章……金銭とは「持つ」ことで価値を覚える「愛する対象」となってはなりません。金銭とは「施す」ために用いるものです。そのためには、金銭を「手離す」ことを学ばなければなりません。金銭をどこに用いることを主が願っていらっしゃるか、すなわち、だれに対して施すべきか、私たちはつねに主のお導きに敏感になり、いつでも持っているものを手離す備えができている必要があります。 ホセア書1章……ホセアが結婚することを主から命じられた女性は、子持ちの姦淫の女性でした。そのような女性を妻として引き取るということは、主の働き人として原則に反することでしたが、そもそも、主にお従いすることこそ最大の原則であった主の民が現に主に背いていたゆえ、このようにホセアは結婚という、主の民としての至上の行動によって、背信の主の民を赦し受け入れる主の愛を現したのでした。私たちにこのような真似ができるでしょうか? しかし、主はこのようにして私たち罪人に愛を示し、また、ホセアに命じられたように、私たちも罪人の罪をイエスさまの十字架の赦しのゆえに覆う者となることを願っていらっしゃいます。 詩篇119篇73節~96節……私たちが手にしているみことばというものは、世界が創造される前から主が天において定めていらっしゃったとおりのものです。私たちはこのみことばをお読みし、学ぶことで、主の永遠の真理を学ぶことができ、また、このみことばに聴き従うことにより、永遠の天の御国の民としてふさわしく生きる者となります。 <祈りの課題>私たちがいつでも、後生大事に握りしめているものを、主のご命令とあらば手離すことができますように。

300 10月27日 Ⅱ列8Ⅰテモ5ダニ12詩119:49-72

列王記第二8章……ハザエルに油を注いでアラムの王とすることは、エリヤが主に命じられたことであり、その命(めい)をエリシャが受け継いだ形となりました。しかしエリシャは、いずれイスラエルの民を殺戮するハザエルの残忍さを主の霊により見抜いていました。事実ハザエルはその直後、主君を残忍な方法で暗殺しました。しかし、このような悲惨なことの背後にも主の御手があることを、私たちはこのエリシャとハザエルの対話からも学ぶことができます。 テモテへの手紙第一5章……クリスチャンは、親の恩に報いることによってその信仰が証しされます。間違っても、親を顧みないことが信仰の道を真面目に突き進むことではありません。もちろん、主にお従いする決断をすることに親との関係が妨げとなるようなことがあってはなりませんが、主にお従いする生き方ができていっているならば、親に対して主の愛をもって接していくべきです。 ダニエル書12章……みことばは今なお秘められている箇所があります。しかし、主にあって正しくされた者は、このみことばが終わりの日に開かれるということを知っているということにおいて、秘密は解かれています。その内容のひとつひとつの意味がいまはまだ明確にわからなくても、その意味が解き明かされることを主のご主権にお委ねして、今日与えられるみことばに従順でありたいものです。 詩篇119篇49節~72節……悪しき者、高ぶる者は、主のみおしえを捨てるものです。このような者に私たちは苦しめられるわけですが、私たちはむしろ、彼らがこれほどまでに素晴しい主のみおしえを平然と捨て、不従順の歩みをすることに怒り、憤るものです。私たちは依然としてこのような者たちから迫害を受けますが、私たちは主のみことばに対する従順のゆえに、救っていただけます。 <祈りの課題>主に従順でありたいと願うすべてのクリスチャンが、親孝行を果たし、また、親孝行を聖徒たちに説きますように。

299 10月26日 Ⅱ列7Ⅰテモ4ダニ11詩119:25-48

列王記第二7章……イスラエルの景気を回復させるために主が用いられたのは、ツァラアトに冒された人々でした。もちろん、主ご自身がアラムの陣営に特別に御業を行われたことが、アラムの陣営がもぬけの殻になった最も大きな理由だったのですが、そのことをイスラエルに知らせるために、捨て鉢になった彼らを用いられるとは、主の御業は驚くばかりです。私たちは自分のことをちっぽけだとか、用いられないとか考えてはいないでしょうか? 主はどのような人のことをも、ご自身のご栄光のために用いてくださいます。 テモテへの手紙第一4章……7節に注目しましょう。俗悪で愚にもつかない作り話、これは、神学をこねくり回して聖書を唯一絶対の神のみことばから人間的な書物へと引き下げ、その前提で、ああでもない、こうでもない、という、不毛の議論に持ち込むことです。そのような議論をするのではなく、敬虔のために自分を鍛錬する、弟子訓練の歩みこそが信徒に求められた道であるというわけです。聖書を神のみことばであると信じ告白することが前提の弟子訓練の歩みには、そのような不毛な議論の介在する余地はありません。 ダニエル書11章……世界の終わりというものは、みことばに記されているとおりに実現するものです。この終わりの時とは、大言壮語する反キリストが滅ぼされる時であるのとともに、聖徒たちが練りきよめられ、白くされて主の御前に出るにふさわしく整えられる時でもあります。私たちはすでに、世の終わりの中を歩んでいるかのように思えるかもしれませんが、恐れてはなりません。これは反キリストにさばきが下り、私たちが主の御前にきよめられる時です。 詩篇119篇25節~48節……この箇所は特に、「みことば」、「戒め」、「仰せ」、「さとし」ということばが繰り返し用いられています。主のみことばによってどれほどクリスチャンは力づけられ、励まされることでしょうか。まことに私たちの歩みは、みことばとともにある歩み、みことばに近づく歩みです。今日もみことばによって教えられることに心から感謝いたしましょう。 <祈りの課題>今日お読みしたみことばによって、今日も、そしてこれからも生きるものとなりますように。

298 10月25日 Ⅱ列6Ⅰテモ3ダニ10詩119:1-24

列王記第二6章……エリシャを目指して攻撃を仕掛けてきたアラムの軍隊に対して、主は彼らを攪乱された末にエリシャのもてなしを受けるようにされました。主は彼らを滅ぼすこともできたはずですが、主は彼らの敵意を祝福に変えられました。これが主の取られる方法です。私たちも、主と自分に敵対する者たちに対し、こちらからも敵意を燃やしたくなることがあるかもしれませんが、主が私たちに望んでおられることは、彼らの祝福を祈ることです。 テモテへの手紙第一3章……信者になったばかりの人で、献身を志す人は、燃えています。それはすばらしいことです。しかし、彼らはまだ主のみことばの奥義を充分に知っているとは言えません。砕かれるべき要素も多々あります。それを、この人はすばらしい信仰を持っているから働きを任せて大丈夫だなどと言ったりするならば、その人にとっても、教会にとっても、不幸なこととなります。 ダニエル書10章……12節に注目しましょう。私たちの主に対する態度が問われています。私たちは心を定めて悟りを得ようとしているでしょうか。神さまを自分の神さまと信じ告白し、その御前で自分のことを戒めようとしていますでしょうか。もしそうならば、神さまはそのような私たちの祈りを聴き届けてくださいます。 詩篇119篇1節~24節……若い人は多くの誘惑にあいます。しかしきよいお方である主は、誘惑に弱い若者であろうとも、誘惑に打ち勝ちきよい生き方をすることを願っていらっしゃいます。そのために若者たちは、主のみことばどおりに主の道を守ることが求められているわけですが、その生き方を全うするためには、日々みことばを黙想し、適用し、実践する歩みをし、教会という共同体においてともに実践したみことばを分かち合うことが必要となります。そのような、主の弟子としてともに訓練される共同体をつくることは、主に喜ばれる教会形成です。 <祈りの課題>教会の中にふさわしい働き人が立てられ、ある程度の時間がかかってもよい形に成熟へと導かれますように。