313 11月9日 Ⅱ列22ヘブ4ヨエ1詩140-141
列王記第二22章……ヨシヤ王の時代、神殿から律法の書が見つかり、それまで律法を粗末にしていたゆえに主の怒りが国に臨んでいたことに気づかされた王は、悔い改めました。主はその悔い改めを受け入れてくださいました。みことばをなおざりにするということは、それだけ、主の怒りを招くことにつながります。私たちはいち早く、みことばをお読みして主に立ち帰る者となる必要があります。
ヘブル人への手紙4章……みことばとはただ聞くだけのものであってはいけません。聴いて守るものです。しかし、みことばを聴いて守る力というものは、本来私たちにはなく、それゆえに、みことばの高い水準が私たちに突きつけられるとき、私たちはその力がないゆえに悲しみます。だからこそ私たちは、その力を与えていただくために大胆に主のみもとに出ていくのです。
ヨエル書1章……私たちがいま享受している栄えというものは、この世界をおさばきになる主の怒りの日が臨むとき、すべては滅ぼされます。ゆえに私たちは、この世界の目に見えるものがすべてとばかりに、この世の富やこの世の安定を求める生き方ばかりをしてはいけません。私たちの手にあるものはすべて主の持ち物であることを認め、主にご栄光をお帰しする生き方をしてまいりたいものです。
詩篇140篇~141篇……「正しい人が……頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように」とありますが、私たち主の民は、主からの油注ぎで戒められる存在です。実に油注ぎとは、私たちの能力を高めて主と関係ない生き方をさせるものでは決してなく、かえって、私たちを戒め、肉の力を制限するものです。しかしそれは、私たちにとっては喜びであり、感謝なことです。
<祈りの課題>私たちがこの世の富よりも主のご栄光を求める生き方をしていきますように。
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