306 11月2日 Ⅱ列15テト1ホセ8詩123-125

列王記第二15章……北イスラエル王国の黄昏においては、ゼカリヤ、シャルム、メナヘム、ペカと、続々と王が殺されてクーデターによって次の王へと王権が移譲されていきました。これは、ダビデ以来(一つの例外を除き)脈々と王位が引き継がれていった南ユダとは対照的です。そもそも王国の成立からして金の子牛礼拝から始まった北イスラエルは、主のあわれみによって辛うじて生きながらえていましたが、その罪過が主の御前にあまりに積み重なったならば、それに対するさばきも必ずあるもので、それは避けられません。私たちの住む世界も主のあわれみによって保たれていますが、いつかは主がこの地の人間に報復される日が来ます。そのしるしは、この世の権力が次々とさばかれ、そのあとに立つ権力もまた反キリスト的であるところに現れます。

テトスへの手紙1章……長老にせよ監督にせよ、その第一の条件は「非難されるところがない」ということです。私たちクリスチャンは赦された罪人であり、地上の歩みには多くの罪が伴うものですが、その罪をイエスさまの十字架の前に差し出して悔い改めもせず、そのままにしているならば、そのような人の歩みは非難されるものとならないでしょうか。それでは長老や監督のような教会指導者にふさわしいとは言えません。キリスト教会に対する反対者は重箱の隅をつつくように粗探しをして、指導者をその地位から引きずり降ろそうとします。それゆえになおさら、私たちは日々自分自身をキリストの十字架の御前に差し出すことを学ばなければなりません。

ホセア書8章……神さまを忘れ、偶像礼拝に走るものに対する神さまからの報酬は、滅亡です。神さまは彼ら主の民が滅びないように何度もみことばを語り、チャンスを与えてくださっているのに、民は主から離れ、偶像の神々をこそ大事にする道を選びました。その結果彼らは主が警告されたとおりに、悲惨極まる形で滅亡しました。私たちも、今まだ自分たちが滅ぼされていないからと、まだ罪にふけったりしてはいないでしょうか? それは、御怒りをもって全地を滅ぼすさばきを下される神さまのことを、ほんとうには恐れていないということを意味します。速やかに悔い改め、その行いから離れるべきです。

詩篇123篇~125篇……悪魔に魅入られた勢力はいつでも、弱い者たちを食いつくすことに飽くことを知りません。私たちも彼らの飽食の対象であり、いつ滅ぼされてもおかしくはない存在です。しかし私たちは食い尽くされませんし、滅びません。なぜならば、私たちの味方である主が、私たちのことを守っていてくださるからです。

<祈りの課題>貪りという偶像礼拝を悔い改めないクリスチャンたち(それは自分のことかもしれない)が、速やかに悔い改め、主のみこころにかなう者となりますように。

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