309 11月5日 Ⅱ列18ピレホセ11詩132-134

列王記第二18章……モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇は、それを仰ぎ見ると生きることができたもので、はるかのちの日のイエスさまの十字架を象徴していました。しかし、それがネフシュタンなどという妙な名をつけられ、民の偶像礼拝の対象になっていたのだとすれば、それはその青銅の蛇に込められた主のみこころが激しく変質させられたということであり、もはやそれは存在する必要がなくなりました。いや、むしろ、存在することによって、民は正しく主を礼拝することができなくなっていました。そのときには勇気をもって、神の民のリーダーは後生大事に取っておかれたものでも打ち壊す必要があります。私たちも思い出の品がもし主との交わりを妨げるようなことがあるならば、それを捨ててでも、主との交わりを選べるようになれれば素晴らしいことです。

ピレモンへの手紙……人がともに主を信じ受け入れるということは、人間関係を新たな段階へと導きます。人間的な主従関係から、主にあって愛し合う関係へと昇華させます。私たちはときに、教会の中に人間関係の問題が生じ、苦労することがあります。それは多くの場合、ほかの兄弟姉妹よりも自分の存在や権利を主張しようとする信徒が引き起こす存在です。しかし、その問題を抱えたどうしがどちらもともに主の御前にへりくだり、自分よりも主を大事にし、その結果、ほかの兄弟姉妹を大事にすることを学ぶならば、教会の中の人間関係はさらに高い段階へと成熟します。

ホセア書11章……主はどこまでもイスラエルを愛されましたが、イスラエルはその愛を拒み、背を向けつづけました。それゆえに彼らは神さまから相当な懲らしめを受けなければなりませんでしたが、神さまはイスラエルを捨て去ることはなさいませんでした。なおも愛し、憐れんでくださっているからです。私たちも神さまに背を向けるような罪人です。しかし神さまはそれでもなお、私たちのことを諦めずに愛してくださっています。私たちはこの神さまの愛に、何をもってお応えすればいいのでしょうか。

詩篇132篇~134篇……主にある兄弟姉妹がともに集い、生きる、主の共同体を形づくること……聖霊の油注ぎが教会にあることは、そのように、ともに集って愛し合う私たちのことを主がご覧になり、祝福してくださるところから始まります。私たち教会は何ものでしょうか? そこに集う者同士が互いのことを思い、祈り合い、愛し合い、助け合う存在です。

<祈りの課題>私の教会が「愛し合う」ことにおいて大いに成長しますように。

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