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365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

歴代誌第二36章……みことばとその語り手をさげすむ群れには、主がそれにふさわしいお取り扱いをされます。そのような群れには主の宮はふさわしくなく、主が敵の手を用いて宮もろとも国を滅ぼされました。しかし、時が来て、主は民を憐れんでくださって、地に回復をもたらしてくださいました。私たちもまた、主のみことばとその語り手をさげすんだ民の歴史につながる者であり、こうして救われて主の民にしていただいているのは、ひとえに主のあわれみのゆえです。私たちは主がこの地を真に回復してくださるように、あわれみをこれからも求めつづける者となりたいものです。 ヨハネの黙示録22章……主は、いのちの水が欲しい者はただで受けよ、とおっしゃっています。福音というものはその本質において、ただで(無料で)分かち合われるべきものです。私たちはあまりに安易に、自分たちのミニストリーが経済的に不足していると、大々的に訴えたりしてはいないでしょうか。この点で私たちは、主が満たしてくださるという信仰にまず立つべきであり、そして、分け与えるときには握った手を堂々と開いて分かち合う者となりたいものです。 マラキ書4章……モーセとエリヤによって証しされたお方はどなたでしょうか? イエスさまです。イエスさまにほんとうにお従いする者は、高ぶることも悪を行うこともなく、義の太陽と癒やしにふさわしい、主の御名に対する恐れが伴います。まことに旧新約すべての聖書のみことばは、イエスさまにお従いすることをもって完成されるものであり、私たちはその御業に参与させていただいている者として、ますます主との交わりの中に生かしていただきたいと願いましょう。 ヨハネの福音書21章……イエスさまは、ペテロたち傷心の弟子たちに対し、おなかがすいただろう、さあお食べ、と、朝ご飯を振る舞ってくださる優しいお方です。もちろんそのあとには、ペテロたちには極めて厳しい弟子の道が控えていましたが、イエスさまは厳しいだけのお方ではありません。その道を堂々と歩みおおせることができるように、力を与えてくださいました。私たちもイエスさまによって力づけられて、弟子の道を歩む者とされています。 <祈りの課題>今年一年の主とともに歩んだその歩みに感謝し、新たな年、ますます主との交わりに励む私たちとなりますように。

364 12月30日 Ⅱ歴35黙21マラ3ヨハ20

歴代誌第二35章……ヨシヤは民を歴史的な礼拝に導いたという点で素晴らしい王でしたが、エジプトに対して起こした野心によって滅びました。しかしこの野心は、単にヨシヤを滅ぼしただけではありません。ヨシヤに率いられるユダ王国を滅ぼすことにつながったのでした。まことに、神の民のリーダーがいかなる判断をするかということは、その群れの命運を左右することです。私たちは、主の民に仕える献身者が肉的な野心から守られるよう、祈って支える必要があります。 ヨハネの黙示録21章……私たち人間はだれもが、死ぬことを恐れます。それは、その死の向こうにある「火と硫黄の池」の存在を、だれしもどこかで意識しているからではないでしょうか。しかし、イエスさまを信じる者、すなわち、子羊のいのちの書にその名の記された者は、もはや死を味わうことがありません。まことのいのちなる神さまと、永遠にともに生きることになります。これ以上素晴らしい福音があるでしょうか。この素晴らしい福音ゆえに私たちは、イエスさまを人々に宣べ伝えるのです。 マラキ書3章……神さまは罪人を憐れんでくださるお方ですが、それでも、正しい者と悪しき者、神さまに仕える者と仕えない者が同じ取り扱いを受けるわけではありません。罪赦されたならば、神さまにお仕えする行動へと実を結んでしかるべきであり、その行いがあってこそ、人々の前にいつくしみ深い主が証しされ、みことばは宣べ伝えられます。その働きのために用いられることは、人にとって最高の祝福です。 ヨハネの福音書20章……復活のイエスさまが私たちに与えてくださった権威は、人の罪を赦す権威です。それはイエスさまが十字架の上で実現してくださったことであり、私たちもイエスさまを主と信じ受け入れた主の弟子であるゆえに、イエスさまの御名によって人々の罪を赦す権威が与えられています。私たちにとって罪を赦すことは、イエスさまに倣うことである以上、弟子の歩みの本質といえることです。罪を赦すということは私たちにとっては極めて難しいことですが、日々、私たちのこの大きな罪を赦してくださったイエスさまと深く交わることをとおして、私たちは人を赦す歩みへと踏み出すことができるようになります。 <祈りの課題>私たちにとって赦しがたい人を赦し、平安をいただくことができますように。

363 12月29日 Ⅱ歴34黙20マラ2ヨハ19

歴代誌第二34章……みことばは、神さまはご自身に対して不従順な者たちに対して激しい怒りを下されるお方だということを示しています。私たちがほんとうにみことばを学んでいるならば、神さまというお方はただ優しいだけのお方ではないことがわかります。私たちに必要なのは、このお方の前に徹底してへりくだって罪を認める、悔い改めです。 ヨハネの黙示録20章……いのちの書にその名が記されていない者は、終わりの日に火の池に投げ込まれ、永遠に滅ぼされるというさばきを受けます。それゆえ、人々はイエスさまとその十字架を信じて御父の怒りから免れさせていただく必要があります。私たちはもし、この世界の愛する人々が滅ぼされることを望まないならば、人々にイエスさまを伝えてしかるべきではないでしょうか。 マラキ書2章……主の民が霊的かどうか、主のみこころにかなっているかどうかということは、結婚という生活をどのようにその者(特に男性の側)がとらえているかということによって測られます。夫婦間で不仲になったり距離をおいたりして、離婚ということを考えるようでは、それは人をひとつにしてくださった主のみこころを踏みにじることになります。まことに、キリスト者にとっての結婚というものは、双方が主との関係をいかに保っているか、主との交わりの中にいかにとどまっているかに左右されるものです。 ヨハネの福音書19章……アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスさまの十字架を目撃して、それまでのこそこそ隠れていたおのが身を恥じて、イエスさまのために行動を起こしました。まことに十字架というものは、弱い者、臆病な者を、行動に駆り立てる大いなる力を持つものです。私たちは日々イエスさまの十字架を前にして、この世を雄々しく生き抜く力をいただく存在です。 <祈りの課題>私たちクリスチャンの結婚(の生活)が、人々に対して大きな証しを立てることができるように。

362 12月28日 Ⅱ歴33黙19マラ1ヨハ18

歴代誌第二33章……マナセ王は苦しみの中で主に立ち帰り、これまでの偶像礼拝を悔い改めました。そうはいっても、聖書全体のマナセに対する第一の評価は、偶像礼拝により南ユダ王国に破滅をもたらした張本人です。私たちにいかに悔い改めの機会が残されているからといって、悔い改めを先延ばしにして、いつまでたっても罪をやめないならば、その末路はどうなるでしょうか。私たちにもし今罪が示されているならば、時を移さず悔い改め、もはやその罪を犯すことのないよう、主の恵みとあわれみにすがる必要があります。 ヨハネの黙示録19章……地を腐敗させるものは淫行です。サタンは淫らなこと、いやらしいことを用いて、神のかたちに創造された人間たちを腐敗させ、自分の勢力に隷属させ、神さま、イエスさまから引き離し、やがて投げ込まれる定めの火と硫黄の池に道連れにします。私たちは滅びに至るサタンの、それでも人間の劣情に働きかけるその策略を知らなくはありません。この情欲と淫行という罪から私たち主の民が守られますように、私たちは祈って取り組む必要があります。 マラキ書1章……形だけの宗教儀式ももちろんいけませんが、だからといって、主の御前に礼拝をおささげする態度がおろそかになっていてはなりません。預言者マラキはいい加減な態度で礼拝をささげる祭司たちを激しく糾弾していますが、私たちも、イエスさまが身代わりになって十字架にかかってくださるほどに神に愛されている存在ならば、誠心誠意、神さまに礼拝をおささげしてしかるべきではないでしょうか。私たちの礼拝の態度が問われています。 ヨハネの福音書18章……ペテロは、いかに恐ろしくなったからとはいえ、人々の前で公然と、「(イエスさまの)弟子ではない」と言い放ちました。ペテロはその瞬間、弟子であることをやめたかのようでした。しかしイエスさまは、彼のことをご自身の弟子として再び立ち上がらせてくださいました。私たちは「魔が差す」ようにして主の弟子であることを否定してしまうこともあるものです。しかし、それで私たちは主の弟子ではなくなったわけではありません。サタンは私たちから言質を取るようにして主から引き離すことを試みますが、いかなる理由にせよ、主の愛から私たちが引き離されることはありません(ローマ8:38~39)。 <祈りの課題>サタンのあらゆる誘惑を超えた主の守りを体験し、さらに主に拠り頼...

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17

歴代誌第二32章……アッシリアのセンナケリブはその国の強大さを誇ることにおいて、愚かにも、創造主なる神さまと偶像に過ぎない神々を同列に置き、神さまは神の民を救い出すことなどできないとうそぶきました。主はそのような傲慢な者に対し、軍勢もろともさばきを下されました。まことに、どんな反キリストも主に敵対することはできません。ただ主に従順でありたいと願うのみです。 ヨハネの黙示録18章……反キリストはあらゆる富を掌握し、世界を支配しますが、やがて主に拠って完膚なきまでにさばかれます。私たちはともすると、この世の富や栄華に恋々とする思いを捨てきれず、その滅びを惜しむような思いになったりしないでしょうか。しかし私たちは、そのようなものに対してあこがれるような思いは一切捨てなければなりません。、私たちのすべき選択は「離れること」、これだけです。 ゼカリヤ書14章……終わりの日は世界の国々から主を礼拝する者たちが選ばれ、主のみもとに集められてきます。その日に至るまで地上には混乱と争いが絶えることはありませんが、ついには主が平和をもたらしてくださいます。私たちの待ち望むべきは、主がもたらしてくださる平和、そして世界中から礼拝者が集められた、終わりの日の究極の礼拝です。 ヨハネの福音書17章……イエスさまはこの世界に人となって来られましたが、この世の人ではありませんでした。私たちもこの世に生まれ育っていますが、イエスさまは私たちのことを、この世に属する存在ではないとおっしゃっています。私たちがイエスさまのみあとに従いたいと願うならば、この世と調子を合わせて生きることをやめなければなりません。私たちはこの世から贖い出された者として、心を一新して変えていただきながら生きる必要があります(ローマ12:2)。 <祈りの課題>私たちがこの世のあらゆる悪やけがれの正体を見分け、そこから離れるという選択をすることができますように。

360 12月26日 Ⅱ歴31黙17ゼカ13:2-9ヨハ16

歴代誌第二31章……ヒゼキヤは、公的な礼拝においてのみ主を礼拝したのではありません。自分の財産からもいけにえをささげています。これは主の民の霊的リーダーである献身者に対して非常に示唆に富む模範を示しています。献身者は公的な場のみが礼拝の場所ではありません。私的な場においても、いや、私的な場においてこそ、主の御前にふさわしい礼拝をささげるべきです。 ヨハネの黙示録17章……世の終わりには、地を支配する反キリストの権力者がほしいままに振舞います。この者たちは子羊キリストに戦いを挑みます。しかし、イエスさまは勝利します。それはイエスさまこそ王の王、主の主だからです。しかし世の終わりには、地上の権力こそがすべてと人々は惑わされるようになります。このとき私たちは、それでもイエスさまにお従いすることができるように、今から恵みを求めてまいりましょう。 ゼカリヤ書13章2節~9節……世の終わりとは、主の民が火の試練をもって試されるときです。そのときになると、反キリストの勢力が猛威を振るいます。しかしそのときは、主の民が自分の信仰を大いに証しするときとなります。その証しによって、世の中が何と言おうとも、主こそが礼拝すべき方であることが示されます。それでも主にお従いしないならば、それはその選択をした者の責任であり、その者は滅びを自分で選び取った、ということです。 ヨハネの福音書16章……今私たちがみことばの真理を学ぶことができているのは、真理の御霊、助け主を、御父と御子イエスさまが私たちのところに送ってくださり、御霊なる神さまが私たちに真理を教えてくださっているからです。御霊によって私たちは主のご臨在を体験し、主のお導きを体験しています。まことに、私たちキリスト者の歩みは、御霊に導かれ、御霊に満たされ、御霊とともに歩む体験です。 <祈りの課題>世の終わりに大迫害が予想されようとも、毅然として主にお従いする私たちとなることができますように。

359 12月25日 Ⅱ歴30黙16ゼカ12:1-13:1ヨハ15

歴代誌第二30章……ヒゼキヤは過越の祭りを祝うことをユダのみならず、「べエル・シェバからダンまで」、南北イスラエル全体に呼び掛けました。いかに北イスラエルはもはや神の国といえる状態になく、その結果ヒゼキヤの呼びかけがあざ笑われるようなことになっても、ヒゼキヤはイスラエル全体の回復の鍵は主との関係にあることを心に留め、祭りを進めました。この、不可能を可能にする主に拠り頼むリーダーシップこそ、この時代の教会に必要とされているものではないでしょうか。 ヨハネの黙示録16章……滅びに定められている人間は、神の怒りとさばきにあってもなお、神の御名を冒瀆するものです。私たちは世の終わりに至るまで人々が救われることを祈り求め、そのために伝道と宣教を欠かしてはなりませんが、そのように聖なるもの、真珠のような宝の教えを、けだもののような態度で踏みにじる者たちに対しては、神さまご自身が見切りをつけられる、すなわち、宣教と伝道というものは最終的に、主の主権のもとにあることを、私たちは認める必要があります。 ゼカリヤ書12章1節~13章1節……イエスさまを十字架につけるユダヤ人(ユダ)に対する預言です。彼らはイエスさまを十字架につけて殺しますが、それゆえに激しく嘆くという、矛盾のような感情が描かれています。しかし、私たちの罪はどのようにして贖われるかを考えるならば、それは矛盾ではありません。私たちは、イエスさまを十字架につけて殺すほどの罪人ですが、そんな罪人を十字架の上で赦してくださるのですから、そのようなイエスさまのお姿を見て、私たちは激しく嘆くのです。 ヨハネの福音書15章……世というものは、イエスさまのみことばとそのみわざを前にして、なおイエスさまを否定するばかりか、イエスさまの弟子たちに激しい迫害を加えます。それが、私たちがとどまっている世というものの正体であり、私たちは愛されようと、この「世」というものの友となろうとしてはなりません。それは主に敵対することになります。私たちは終わりの日に、イエスさまに認められていのちを得たいでしょうか、世に認められて滅びる者となりたいでしょうか。 <祈りの課題>厳しい目にあっても、いのちに至る道を選択させていただく私たちとなりますように。

358 12月24日 Ⅱ歴29黙15ゼカ11ヨハ14

歴代誌第二29章……ヒゼキヤは、主を礼拝しないことがユダ王国とその主とエルサレムに主の御怒りを招いたことを知って、それに対して策を講じました。その策とは、国を挙げて主に立ち帰ることでした。実に、主との関係を回復するには、民全体の悔い改めが必須です。私たちにとっての悔い改めは、個人的なものにとどまらず、家族全体や教会全体のような、共同体にてささげるものである必要があります。 ヨハネの黙示録15章……神は憤られるお方であり、世の終わりには、その憤りを余すところなく地の上に注がれます。私たちはつとに、神は愛であると言いますが、その愛の根本には憤りがあり、その憤りを身代わりにイエスさまの十字架に注いでくださったという事実を忘れてはなりません。私たちもまた神の憤りを受けるべき存在でしたが、特別な恵みによって赦していただいたことを忘れてはなりません。 ゼカリヤ書11章……主に背くこの時代の者たちの行動は、のちの日に宗教指導者たちが神の子イエスさまを見捨てることにつながります。まことに人の罪は、イエスさまを見捨てるということにおいて極限に達します。私たちもその中のひとりであるにもかかわらず、あわれみをいただいて、イエスさまとその十字架を信じる者としていただきました。 ヨハネの福音書14章……私たちクリスチャンは、イエスさまを愛していると心から言えるようになりたいはずです。しかし、イエスさまを愛していることは、イエスさまの戒めを守ることによって証明されます。私たちは罪人であることを、戒めを守れないことの言い訳にして、怠けていてはなりません。戒めを守れるように、その力をイエスさまに少しでも求めていく必要があります。 <祈りの課題>イエスさまが与えられた戒めを少しでも守る者にしてください。

357 12月23日 Ⅱ歴27-28黙14ゼカ10ヨハ13

歴代誌第二27章~28章……ユダの王の偶像礼拝は、もはや意識的なものとなっていました。まことの神さまに礼拝をささげないで、偶像の神々を頼りとするその姿勢こそ、やがてユダに破滅をもたらす要因となりました。日本と世界の教会の命運は、指導者が間違った方向に行くかどうかに左右されています。もし、現時点で頑なさがはなはだしくなっているならば、その後の修正はとても大変なものとなります。私たちは指導者のために祈らなければなりません。 ヨハネの黙示録14章……主イエスさまは最終的に勝利されます。しかしその一方で、イエスさまに従わない者は激しいさばきに服さざるを得ません。とても単純なことです。それでも私たちはこの終わりの世を生きるとき、世に妥協してしまいそうになる誘惑に絶えずさらされていることを認める必要があります。それゆえ、私たちには忍耐が必要です。 ゼカリヤ書10章……主の御目はご自身の羊たちに注がれています。羊に対して間違った導きをしたり、羊を傷つけたりする者に対しては、主は激しい憤りをもって罰を下されます。私たちは何者でしょうか? 私たちは羊飼いである前に、主の御前において、主の御目が絶えず注がれている一匹の羊であるという自覚が必要です。 ヨハネの福音書13章……私たちキリスト者、イエスさまの弟子たちの旗印は、主にある兄弟姉妹が互いに愛し合うということです。この姿が世の人たちに示されるならば、世の人たちは私たちのこの姿を見て、主の愛によって愛することのすばらしさ、麗しさを知ることになります。愛すること以上に主を証しするものはありません。 <祈りの課題>世の終わりに向けて日々忍耐する者となりますように。

356 12月22日 Ⅱ歴26黙13ゼカ9ヨハ12

歴代誌第二26章……王が香をたくのは、主が特別に聖別された祭司たちに対する越権行為であり、このことゆえにウジヤは二度と王座に就くことができなくなりました。私たちは自分勝手に信仰生活、教会生活を送ることはできません。主が立てられた霊的秩序を、主にあって尊重すべきです。そうするとき、私たちは平和のうちに保たれ、私たちが健全に行使すべき権威が尊重されます。 ヨハネの黙示録13章……反キリストを礼拝することは、反キリストの陣営に属することであり、いのちの書に名前が記録されることに最もふさわしくないことです。この世界は反キリストを喜ばせるものにあふれており、反キリストはそのようなものによって純朴な人をだまし、自分に隷属させ、地獄に道連れにしようとします。私たちは主とともに過ごす終末と、地獄で永遠に過ごす終末と、どちらを選びますか。 ゼカリヤ書9章……ゼカリヤはエルサレムの回復を預言しましたが、その預言はさらにのちの時代の、イエスさまのエルサレム入城まで予告していました。旧約のみことばは新約において成就し、さらに私たちの時代において実現します。私たちはみことばを体験し、また、体現する存在として、日々みことばから学ぶことを大事にしたいものです。 ヨハネの福音書12章……イエスさまはしるしを行われましたが、それにもかかわらず、政治指導者や宗教指導者のようなエリート層は、多くがイエスさまを信じませんでした。しるしはご自身が神の子であることを証しするものでしたが、それは人を自動的に救いへと導く、すなわち、イエスさまが主であると信仰告白させるものではありませんでした。それはこんにち、人々が、イエスさまが多くのしるしを行われたことを知ってはいても、イエスさまを主であると信じ受け入れないことと同じです。私たちはそのような中で、イエスさまのみわざを、神の栄光の現れたしるしとして受け入れているのですから、まことに神の恵み、感謝なことです。 <祈りの課題>私たちが反キリストの産物(文化など)を避け、主のみこころにかなう歩みをするように。

355 12月21日 Ⅱ歴25黙12ゼカ8ヨハ11

歴代誌第二25章……南ユダと北イスラエルの、いわば内戦のようなことになった原因は、主がともにおられない戦いに南ユダのアマツヤ王が北イスラエルから傭兵を招集したことにあります。主の民の強大さは主がもたらされたものであることを自覚しないならば、リーダーはその強大さを、あたかも自分のものであるかのように勘違いします。しかしそのように思い込むことは、それだけ、主との交わりが形式的にすぎないことを証明しています。 ヨハネの黙示録12章……聖徒たちが竜(サタン)に打ち勝つのは、子羊(イエスさま)の血と、自分たちの証しのことば(聖書のみことばを口と行いで証しすること)のゆえです。いずれにせよ、それは私たちのすばらしさに起因するのではありません。すべてはイエスさまがしてくださったことであり、また、イエスさまがしてくださることです。ゆえに、サタンに打ち勝つようにしてくださるのは、イエスさまです。 ゼカリヤ書8章……主がご自身の民に、その罪にしたがってわざわいを下されたのは確かなことですが、主はそののち、ご自身の民に幸いを与えられると語ってくださいました。私たちはただ主がわざわいとさばきを下される恐ろしい方だと思ってはなりません。主は私たちのことをふさわしい悔い改めに導いてくださり、幸いを与えてくださるお方です。 ヨハネの福音書11章……信じる者が神の栄光を見ます。ゆえに、主とそのみことば、そしてそのみわざを信じる信仰を与えていただいた者は幸いです。私たちはひとりでに主の御業を体験し、ひとりでに主のご栄光を見るのではありません。私たちの側にも、信じる、ということが必要になります。信仰を増し加えていただくように祈りましょう。 <祈りの課題>私たちの信仰を増し加えてください。

354 12月20日 Ⅱ歴24黙11ゼカ7ヨハ10

歴代誌第二24章……ヨアシュはエホヤダの死後、いとも簡単に主を見捨て、偶像に仕えました。これが人間の罪性というものの恐ろしさです。それまでどれほど主にお仕えしていたかということは、そののちの人生においてカウントされません。問題は「今」主の御前でどのように生きているかということです。私たちは「今」主の御前においてどのような態度でいますでしょうか。 ヨハネの黙示録11章……反キリストに魅入られた者たちは、主に従順な働き人が死ぬとき、贈り物を贈り合って記念するほどに喜びます。これが、私たちの生きている世界の様相です。私たちはこのような世にあって、預言者の役割を果たします。当然、私たちを待ち受けている状況は、極めて厳しいものです。しかし、最後まで耐え忍ぶならば、主は私たちのことを天の御国に携え挙げてくださいます。 ゼカリヤ書7章……私たちが気をつけなければならないことは、主を礼拝すること、主に仕えていることと自分で思っていることが、実は主のためではなく、自分のためのものでしかなくなる場合です。主はこのように、私たち主の民が形式的な宗教に陥って、隣人に対して具体的に愛を実践しないことを、大いにお嫌いになります。 ヨハネの福音書10章……イエスさまは御父のみこころにしたがって十字架にかかられましたが、それは同時に、イエスさまご自身が自分からいのちを捨てる権威を行使された、ということです。しかしこの権威は、私たち人間、イエスさまを信じる者を生かすために用いられた権威であって、自分のためではありません。いのちを捨てることが尊いのは、人を生かすためにそうするからです。 <祈りの課題>今日も私たちの助けを必要としている人のために、具体的に行動する私たちとなりますように。

353 12月19日 Ⅱ歴22-23黙10ゼカ6ヨハ9

歴代誌第二22章~23章……ユダの歴代の王のうち、女王アタルヤだけはダビデの直系ではなく、しかも、イスラエルに偶像礼拝をさせたイゼベルの娘でもありました。そのようなユダの暗黒期に宗教改革を行おうと立ち上がった祭司エホヤダの姿を見ましょう。私たちの置かれている世界も、霊的には極めて暗い状態にあるかもしれません。しかし、私たちはそのような中にあっても、まず自分から改革されるように祈って取り組む必要があります。その自分の改革はやがて、周囲全体の改革につながります。 ヨハネの黙示録10章……みことばは蜜のように口に甘いものですが、いざそれをわがものとし、そのとおりに行おうと黙想し、適用していこうとするならば、きわめて苦い思いをします。みことばはよいものであることがわかっていても、いざそれを行うことはなんと難しいことでしょうか。しかし、私たちは苦みに打ち倒されそうになりながらも、主に立ち上がらせていただいて、みことばを行う者としていただきたいものです。 ゼカリヤ書6章……イエスさまというお方は、ご自身のみからだという神殿を、十字架から3日で建て直され、ご自身が神の子であることをお示しになりました。私たち神の民は、この王なるイエスさまのみそばにて、王である祭司、聖なる国民としてお仕えする者、父なる神さまがイエスさまによってもたらしてくださった平和を享受させていただく存在です。 ヨハネの福音書9章……ユダヤの宗教社会ならびにその指導者たちは、盲人であった者の親の、生殺与奪の権限を握っていました。親たちはほんとうならば、喜びにあふれてイエスさまのことを証しできるはずだったのに、その喜びの証しは封じられていました。盲人だった者がその縛りを超えてイエスさまを証しできたのは、恵みというべきことでした。私たちもこの異教の社会に生きていて、イエスさまが堂々と証しできないもどかしさの中にいると感じるかもしれませんが、主は私たちに、そのような中でもイエスさまを証しする恵みを与えてくださいます。その恵みを祈り求めてまいりましょう。 <祈りの課題>時が良くても悪くてもイエスさまを証しできますように。

352 12月18日 Ⅱ歴21黙9ゼカ5ヨハ8

歴代誌第二21章……ヨラムはあまりにも破壊的な反キリストの道に歩み、国を淫行のごとき偶像礼拝によって迷わせ、ついには彼自身の最後もそのけがれた行いにふさわしいものとなりました。もちろん、神さまは父祖ダビデのゆえに、ヨラムの乱行をもってユダを滅ぼすことはなさらなかったわけですが、ユダに罪をもたらした責任者として、聖書はヨラムを激しく糾弾しています。私たちも恵みによって、私たちの住むこの世界は守られているわけですが、それは私たちひとりひとりの罪がさばかれないままでいる、ということではありません。私たちに悔い改めるべき罪があるならば、速やかに悔い改めるべきです。 ヨハネの黙示録9章……この描写は現代の(あるいは未来の)戦争を連想させるものであり、私たちは今にもこのような終末的破滅にさらされていることを思いますが、問題は、それでも人々が偶像礼拝、殺人、魔術、淫らな行い、盗みをしていることを悔い改めない、ということです。それほどまでに人は頑なだということを私たちは念頭に置きながらも、それでも神さまがこのような人間のことをあきらめてはおられないという、そのみこころを胸に、人々が悔い改めるように、この終わりの世においてみことばを宣べ伝えるべきです。 ゼカリヤ書5章……終末論的な描写です。全地はみことばによってさばかれ、それでもそのさばかれるべきこの地の民は、世界を支配する女に身をやつした反キリストに淫する者となります。私たちは全地を覆うようにみことばが天を飛び駆ける、その幻が見えるようにして生きていますでしょうか? この世界で目に見えるものがすべてだと思ってはなりません。この世界は主のみことばによってやがてさばかれます。 ヨハネの福音書8章……イエスさまの弟子になる条件は、イエスさまのみことばにとどまることです。もし、人がイエスさまのみことばにとどまるならば、罪が赦され、したがって律法ののろいから自由になるという恵みをいただきます。イエスさまの弟子とは、自分自身がイエスさまにあって自由であり、その自由をもって人を自由にする人です。 <祈りの課題>世の終わりに祈りつつ備えながらも、イエスさまに命じられたとおり、平和をつくり出す者となりますように。

351 12月17日 Ⅱ歴19-20黙8ゼカ4ヨハ7

歴代誌第二19章~20章……ユダという国の命運は、王が主にお従いする行いをしたか、しなかったかにかかっていました。王が主に従ったということは、国全体を主にお従いするように動員したということにおいて証しされました。まことの指導者は、主に対する自分の従順から来るその影響を、その率いている集団全体によい形で及ぼすことのできる人です。 ヨハネの黙示録8章……聖徒たちの祈りとは、すべてがひとつとなって御前に香のごとく立ちのぼるものです。私たちの祈りはひとつとして無駄なものはありません。私たちの祈りは、終わりの日のさばきに向けて積み重ねられるものです。それゆえ私たちは、祈ることに飽いてはなりません。すべてが天で聴かれ、地でかなえられるという信仰の確信をもって、今日も祈りましょう。 ゼカリヤ書4章……人は、大いなる山のごとき反キリスト、主のみこころを妨げる存在を見るとおののき、力を失います。しかし主は、そのような存在をものともされず、みこころを成し遂げられます。私たちは気落ちしていてはなりません。私たちは現実を見て気落ちするのではなく、現実を超えて働かれる全能なる主のご存在とそのみことば、御業に目を留めて、力をいただくべきです。 ヨハネの福音書7章……イエスさまは、主の兄弟たちがよかれと思ってアドバイスしたようには行動されませんでした。イエスさまは神の時にしたがって行動されました。私たちも主に動いていただき、ああしてほしい、こうしてほしいと希望することの多い者ですが、私たちが忘れてはならないことは、主はご自身の時にしたがって行動されるということです。そしてこれも確実なことですが、主がご自身の時にしたがって行動されることは、人の考えよりはるかにまさっています。 <祈りの課題>私たちが現実に左右されず、主の御力に委ねる者となりますように。

350 12月16日 Ⅱ歴18黙7ゼカ3ヨハ6

歴代誌第二18章……自分では主の霊を受けているつもりでも、実は悪霊を受けているならばそれは悲惨なことです。しかし、時が悪ければ、聖霊の人が悪霊の者どもによって大いなる迫害を受けることになります。私たちはしかし、どのようなことになろうとも主にお従いするために、世と悪魔に妥協せずに聖霊の満たしを受けつづけなければなりません。 ヨハネの黙示録7章……神のしもべたちは、地上において激しい迫害にさらされ、苦しみます。その苦難ゆえに涙を流します。しかし主は、終わりの日に、聖徒たちが主のゆえに流した涙に、必ず報いてくださり、イエスさまとともに過ごす永遠の安息、永遠の礼拝を与えてくださいます。私たちはその日を目指して日々歩むべきです。 ゼカリヤ書3章……私たちはサタンに絶えず訴えられています。私たちが罪あるものであることは避けがたく、サタンは私たちの犯した罪、それ以前に、抜きがたく抱えている罪性をあげつらい、救いには到底ふさわしくないととがめます。しかし、神さまが、そのように私たちのことをとがめるサタンをとがめられ、最終的にさばいてくださることを、私たちは覚えておかなければなりません。私たちはイエスさまの十字架によって赦されているのです。 ヨハネの福音書6章……私たちが忘れてはならないことは、私たちがイエスさまにお従いすることができるのは、イエスさまが私たちのことを選んでくださったからです。私たちからイエスさまについて行くかどうかを選択するのではありません。今日喜んでイエスさまにお従いできているのは、ひとえに、神さまの恵みです。感謝しましょう。 <祈りの課題>私たちがサタンの脅かしから守られ、イエスさまにだけ従っていけますように。

349 12月15日 Ⅱ歴17黙6ゼカ2ヨハ5

歴代誌第二17章……ヨシャファテの富と名声の秘訣は、国民に主のみことばを教えることを組織的な国策としたことにあります。主の御国を治めるうえで第一に執り行なったことが、目に見える経済や軍事の政策ではなく、みことばを教えることであったわけです。このことは、主の御国に仕える私たちにとっても大事な示唆を与えています。私たちが何よりも優先すべきは、組織としての教会を保たせること以上に、みことばが互いに教え合われることです。 ヨハネの黙示録6章……世界各地で行われている、キリスト者に対する残虐な迫害のニュースを目にするたび、主はいつまで沈黙しておられるのかと思わずにいられなくはならないでしょうか? しかし、私たちは正義の主のさばきを信じるべきです。主はご自身の御名のゆえに迫害を受けた者たちを覚えていてくださいます。そして、そのような目に合わせる者たちに、それにふさわしいお取り扱いをしてくださいます。落胆しないで主の御手を信じましょう。 ゼカリヤ書2章……私たちは時に、主の懲らしめにあって厳しい体験をしますが、主は私たちの味方でいてくださいます。私たちのことをお見捨てになりません。そして、私たちに触れる者たちをご自身の瞳に触れる者とみなし。そのしたことにしたがってお取り扱いをされます。私たちは、私たちの味方でいてくださる主に拠り頼みつつ、今の試練から脱出させてくださる主を最後まで信じましょう。 ヨハネの福音書5章……実にみことばとは、イエスさまがキリスト、救い主であることを証ししているものです。いろいろな立場の者がみことばを解釈し、そこから真理を導きだそうとしますが、イエスさまによらずしてはみことばをほんとうの意味で解釈することはできません。私たちはみことばによってイエスさまを知り、イエスさまによってみことばを知る者として成長したいものです。 <祈りの課題>みことばの真理を知るために、ますます、イエスさまのことを知ることができますように。

348 12月14日 Ⅱ歴16黙5ゼカ1ヨハ4

歴代誌第二16章……アサは王にふさわしく、非常に丁重に葬られました。それはそれだけ、ユダ王国において愛されていたからといえますが、アサの最後は悲惨なものでした。北イスラエルとのいわば「内戦」において主以外のものを求めることをし、今わの際にも医者を求めることはしても、主を求めることはしませんでした。人の真価はこのようなときに明らかになります。私たちはこのようなとき、主を求めることができていますでしょうか。 ヨハネの黙示録5章……みことばがあってもそれが読めていない、意味が分からないということは、実は、激しく泣くべき悲しいことです。しかし、悲しむだけで終わることではありません。最後の勝利を取ってくださったイエスさまがこのみことばを開いてくださいます。すなわち、すべてのみことばは、イエスさまによって読み解くことができるものです。イエスさまによって、私たちがみことばを理解できる者としていただいていることに感謝しましょう。 ゼカリヤ書1章……私たち神の民は、主がいつでも御顔を向けて顧みてくださることに期待します。しかしそのためには、私たちの側から主を求めることをしていかなければなりません。主に立ち帰るならば、私たちを懲らしめて私たちからあえて離れておられた主も、私たちへと帰ってくださいます。 ヨハネの福音書4章……王室の役人はイエスさまのしるしと不思議を必要としていました。しかし彼は、しるしと不思議を見なければ決して信じなかったわけではありません。彼には、イエスさまは必ずしるしと不思議に拠って自分の子どもを救ってくださるという信仰がありました。その信仰をもってイエスさまにすがりました。イエスさまが喜んでくださったのは、この役人の信仰でした。信仰がある者が神に喜ばれます(ヘブル11:6)。 <祈りの課題>私たちの信仰を増し加えてください。

347 12月13日 Ⅱ歴14-15黙4ハガ2ヨハ3

歴代誌第二14章~15章……アサの時代まで、ユダは長らく祭司もいなく、律法もない時代を過ごしていました。しかしここで、アサは預言を聞いて全ユダとともに奮い立ち、宗教改革を行いました。リバイバルが起こったのでした。しかしリバイバルとは、もちろん神さまのあわれみで起こしていただくものという前提がありますが、霊的指導者が切に求めるところからすべては始まります。私たちに主を心から求める飢え渇きが与えられるように、大いに祈ってまいりましょう。 ヨハネの黙示録4章……万物はなぜ存在するのでしょうか。それは創造主なる神さまのみこころのゆえです。みこころのゆえに創造され、存在させられています。ゆえに、この世界に存在するすべてのものは、創造主なる神さまの目的に従った生き方をしてしかるべきです。私たち、主によって召され、主のみこころを守り行うべく遣わされた者こそ、主のご栄光を顕す生き方をせよという主の目的に従って生きるとはこうである、と、世に示す必要があります。 ハガイ書2章……私たちは長い人生の中で、かつて自分が体験した恵みは今自分の置かれている状況よりもはるかにまさっていたと比較し、落ち込んでしまうことの多いことはないでしょうか。しかし、主は私たちが今、過去と比較してどのような状況にあるとしても、私たちに対して「強くあれ」と言ってくださいます。問題は今どうであるかではありません。神さまが未来をどう導いてくださるかです。神さまに対して信仰を持ちましょう。 ヨハネの福音書3章……イエスさまがこの世に来られたのは、イエスさまによって人々が救われるためです。しかし、救われるためには、イエスさまを信じなければならず、それ以外の道は一切ありません。イエスさまを信じない者の行いは明白で、神さまのみこころに反する悪の行いを愛し、決して神さまのほうに行かない、という形で現れます。しかし、私たちも本来は、そのような悪い者のひとりではなかったでしょうか。神さまの恵みによってイエスさまを信じる信仰が与えられ、今こうして救われていることに感謝しましょう。 <祈りの課題>私たちが未来における主の導きに期待し、今の苦境または退屈さに打ち勝つ者となりますように。

346 12月12日 Ⅱ歴13黙3ハガ1ヨハ2

歴代誌第二13章……アビヤは、自分の戦いが主の戦いであることを意識して、そのように北イスラエルの軍勢に宣言していました。この宣言を聞いたとき、ヤロブアムと北イスラエルのすべきことは、自分たちの金の子牛礼拝、そして神に仕えることをやめた罪を悔い改め、南ユダと和合することでした。しかし彼らは頑なでした。私たちも自分の頑なさのゆえに、主にあってひとつであるべき教会の一致を乱すことになっていないか、ヤロブアムの頑なさを反面教師として自分自身を省みましょう。 ヨハネの黙示録3章……ラオディキア教会の聖徒たちは激しく叱責されています。しかし、それは彼らがキリストのからだなる教会の交わりから切り捨てられるためではありません。むしろ、神さまが彼らを愛していらっしゃるからです。愛していらっしゃるから、悔い改めてご自身との交わりを回復するため、叱ったり懲らしめたりなさるのです。私たちも主の叱責や懲らしめを受けたからと、自分はもうだめだなどと思ってはなりません。そのときこそ、自分の捨てるべき罪を捨て、主の御前に大いに立ち帰る者となりましょう。 ハガイ書1章……ハガイの時代、帰還したユダヤ人たちが自分たちの安定よりも主の宮を建てることを命じられたように、私たちは自分の安逸を主を礼拝し、キリストのからだなる教会を立てることよりも優先させるようではいけません。要は、私たちの関心がどこに向かっているかです。私たちの第一の関心の対象は、私たちが主にある共同体であることを自覚して、この地に教会を形成していくことであるべきです。 ヨハネの福音書2章……イエスさまというお方は第一に、人からの証言を必要とされない、まことの神さまです。私たちクリスチャンは伝道や証しをしようとするとき、このお方が神さまであることを、人間的なことばを動員して力説しようとする必要はありません。罪人のことば、肉に属することばは、しょせんイエスさまの神性を引き下げるものでしかありません。私たちは御霊に属する者として、御霊に教えられたことばを語る者となりたいものです。 <祈りの課題>私たちの生活における最優先の関心事が、キリストのからだなる教会を立て上げることになりますように。