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198 7月17日 ヨシ24使4エレ13マタ27

ヨシュア記24章……ヨシュアは民に、あなたたちが願うならば偶像の神々を選んで拝むがよい、ただし、わが家とわれは主に仕えると語りました。主は、ご自身に従うことを選択として私たちに人間に提示していらっしゃいます。主は信仰と従順を強制される方ではありません。しかし、そのような中で私たちが主を信じ、主にお従いするならば、大いなる祝福がついてまいります。 使徒の働き4章……イエスさまの福音を宣べ伝えることは、人間業でできることではありません。投獄や脅迫もその勢いを止めることはできません。なぜならば、地を揺れ動かすほどの全能の力をもって働かれる、主の御手が実際に使徒たちに臨んだように、みことばを宣べ伝える私たちにも臨むからです。私たちはこのような大胆さを与えてくださる全能の主に信頼し、語るべきことを大胆に語る力をいただいてまいりましょう。 エレミヤ書13章……腰に締める帯は、真理を象徴しています(エペ5:14)。しかし、いかに主の民であれ主を捨て去る者には、真理など何の役にも立たないようになります。役に立たない真理などそもそもその存在が矛盾しています。しかし人がその創造主なる主を捨て去るならば、その者にとっての真理など何の役にも立ちません。現代社会においての真理もこれと同じで、神さまを離れている以上、何の役にも立たないものです。 マタイの福音書27章……イエスさまを嘲る群衆は、イエスさまが十字架から降りたらほんとうに信じるのでしょうか。創造主なるお方に対し、なんという態度を取っているのでしょうか。しかし、このような態度を取る群衆は、ほかならぬ私たちのことです。私たちはどれほど、イエスさまの十字架など関係ない生き方を選んでしまっていることでしょうか。十字架にくぎづけにされたイエスさまから目をそらし、勝手な信じ方をしていることでしょうか。それでもイエスさまは私たちのことを限りなく赦してくださっています。この恵みに今日も感謝しましょう。 <祈りの課題>イエスさまの十字架に感謝します。

197 7月16日 ヨシ23使3エレ12マタ26

ヨシュア記23章……主にお従いすることを決心した者は、断固としてその決心を守らなければなりません。よほど気をつけないと、もともとその地にはびこっていた偶像礼拝の習慣に染まるものであると、ヨシュアは警告しています。私たちも異教の世界に生きており、特に結婚や職場選択という、生活に必須の決心をするにあたって、偶像の文化に妥協するようなことをしてしまいがちです。しかしそのような妥協は、やがて主への不従順という、きわめて不幸な結果を刈り取りかねません。主の共同体を守ることにおいても、私たちはお互いに気をつけ、不従順の罪を共同体に持ち込まないようにしたいものです。 使徒の働き3章……宣教というものは、たんなるいやしのわざだけで終わらせるべきものではありません。人々を悔い改めに導き、神に立ち帰らせてこそ、宣教は完成します。いやしだけではありません。英会話でもゴスペル教室でもいいですが、クリスチャンならではの活動をすることは素晴らしい一方で、その活動そのもので満足してはなりません。そこに集まる人々にはいつか悔い改めを説き、神に立ち帰らせる必要があります。私たちはそのように宣教の働きを展開していけるように、ともに祈ってまいりましょう。 エレミヤ書12章……偶像礼拝をする者に対する主のお取り扱いは公平です。主の民であるかどうかは関係なく、ともに大いなるさばきを受けます。しかし主は、民が滅びたままにはしておかれません。必ず立て上げ、再びチャンスを与えてくださいます。私たちにとっての祝福は、その与えられるチャンスに応答して、私たちがしっかり立ち上がり、主への従順の歩みをするかどうかにかかっています。 マタイの福音書26章……イエスさまは、三人の弟子が悲しみのあまり疲れ果てていることをご存知でしたが、それでも祈りに導きました。しかし彼らは祈れず、主への従順は失敗しました。私たちはいざというとき、祈るように主から促されているものですが、なんと肉が生きていて、御霊の働きである祈りに集中することができないものでしょうか。それでも主は、私たちが弱かろうと、祈れと促していらっしゃいます。私たちは従順によって、肉体の壁を超えることができるように、ともに祈りつつ励ましてまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちの伝道が、福音をしっかり提示し、悔い改めを説くことにおいて実を結ぶことができますように。

196 7月15日 ヨシ22使2エレ11マタ25

ヨシュア記22章……ルベン族とガド族がヨルダンの川向うに新たに祭壇を築いたのは、全イスラエルに対する反逆のためではなく、むしろイスラエルの神を大切に思う思いからだということが伝わって、全イスラエルは平安を得ました。神さまに対するまことの信仰は、どんな人にも利己的な思いからの解放を与え。ともに平安に導きます。 使徒の働き2章……甘いぶどう酒に酔っぱらうのは子どもであるように、聖霊に酔う私たちのことを子ども扱いする人はいます。しかし、そのように嘲る者たちは罪人であるゆえにキリストを十字架につけたというメッセージを私たちは伝える義務があり、これは子どもであるなしにかかわらない、真剣なことです。この働きは、聖霊に酔う人でなければ担うことができないゆえ、私たちは聖霊に酔う者とされていることを誇りとする必要があります。 エレミヤ書11章……主はご自分の民を瞳のように守られます。民がわざわいにあうとき、つねに救い出してくださいました。だが民はなんと恩知らずなのか、救い主なる神さまに背を向け、偶像に走る選択をしました。そのようなことをするならばどういうおつり扱いを主が下されるか、知っての上でです。主はその民の選択にふさわしいことをしていらっしゃるだけで、けっして恐ろしいだけの神さまだから民を罰しておられるわけではありません。私たちも大いなる懲らしめにあうことがありますが、そのとき私たちのすることは、神さまを恨むことではなく、悔い改めです。 マタイの福音書25章……イエスさまをほんとうに信じているならば、弱い立場にある人に施しをするという形でキリストの愛を実践してしかるべきです。そうでないならば単なる個人的な宗教行為に堕してしまいます。そういう、自己満足のような態度を、主は厳しく罰せられます。私たちは主との交わりを深め、キリストの愛を隣人に実践する生き方を具体的にしてまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちが困窮している隣人に目を留め、具体的に愛を実践するキリストのしもべとなることができますように。

195 7月14日 ヨシ20-21使1エレ10マタ24

ヨシュア記20章~21章……レビ部族にはイスラエル全体の中から、町と放牧地が割り当てられました。レビ人がいかに主ご自身が相続地であるとされていても、生活のある身であり、主の民イスラエルは彼ら献身者の生活を顧みる必要がありました。こんにちにおいても、主に献身した教職者や宣教団体のスタッフのような人は、きわめて不安定な生活をするようになっています。主の民は彼らのことを見捨ててはなりません。ともに支えることで、霊的な共同体を強固なものにしてまいりたいものです。 使徒の働き1章……ヨセフ(バルサバ)にせよ、マッティアにせよ、復活の証人として使徒を継ぐべき立場にあると見なされていました。使徒としてはマッティアが選ばれたものの、ヨセフの名前もこうして使徒の働き1章にとどめられています。私たちが主イエスさまの復活の証人となるならば、聖書に名前がとどめられるがごとくに、天の巻物に名が記される栄光にあずかります。 エレミヤ書10章……偶像はどんなに美術品としての価値があるように見えようとも、どんな芸術家の作品であろうとも、しょせんそれは天と地をつくられたお方のお姿ではありません。このようなものを拝んだり、有難がったりするのは、少なくとも主の民である私たちにはふさわしいことではありません。天と地をおつくりになった主だけを恐れ、主だけを拝む者となりましょう。 マタイの福音書24章……私たちは主のしもべたちに対して、普段から尊敬を払い、仕えることをしているでしょうか。もし、彼らが下手に出るのをいいことに、彼らの上に権力を振るうようなことをしているならば、そのような者は、再臨の主の御前に立つことになったとき、大いなるさばきを受けることになります。私たちにとっての救いは、私たちを謙遜にし、お互いを自分よりもまさった存在であると心から思えるようにするものです。 <祈りの課題>偶像をありがたがるこの地の人たちが、主を見出し、主を信じお従いする人へと変えられますように。

194 7月13日 ヨシ18-19詩149-150エレ9マタ23

ヨシュア記18章~19章……ヨシュアは、まだ割り当ての地を占領しにいかない7つの部族をせきたて、遣わしました。地を占領するのは主のみこころですが、それを先延ばしにすることは不従順のそしりを免れません。もし、主の民の共同体の中に、不従順の中にとどまっている兄弟姉妹がいるならば、民のリーダーは彼らを従順に導くべく、チャレンジする必要があります。 詩篇149篇~150篇……息のあるもの、それは、主からいのちの息を吹き込まれたものであり、至上の被造物である人間です。人としてこの世界に生まれた以上、すべきことは創造主なる神さまをほめたたえることです。私たちが未信者に伝道し、イエスさまを信じる信仰に導くことの意味が、ここに出てまいります。まことの被造物として回復させる働きをするのです。 エレミヤ書9章……主は、ご自身に不従順な者たちは、割礼を受けていようといなかろうと、ご自身の民であろうとなかろうと、罰せられると宣言されました。みな不従順、偶像を拝む者、それゆえに地上に悪を行うものとなっており、主のご栄光はいたく汚されています。私たちの歩みは、主を悲しませ、主の怒りに触れるものとなっていないでしょうか? 私たちは公明正大に主の御前に歩む者となれていますでしょうか? マタイの福音書23章……イエスさまを拒んで偽教師に堕してしまった者は、熱心なことは熱心です。まさしくイエスさまがおっしゃったとおり、海と陸を巡り歩く熱心さを備えています。しかしその熱心さはどこまでも、反キリストという「ゲヘナの子」を生み出すためであって、イエスさまの栄光のためではありません。私たちは人の熱心さに騙されるようなことのないようにしたいものです。もちろん、私たちの熱心さが主にもとづかないものとならないようにすることも、言うまでもありません。 <祈りの課題>私たちの周りの未信者の方々が主のかたちに回復されるように、私たちがイエスさまを語っていくことができますように。

193 7月12日 ヨシ16-17詩148エレ8マタ22

 ヨシュア記16章~17章……ヨセフ族にとってはくじで割り当てられた土地だけでは足りず、さらに出ていって別の土地を手に入れる必要がありました。彼らにはその力があるとヨシュアは判断し、ヨセフ族を力づけて送り出しました。私たちも、ひとつところにとどまって権利を主張するような小さなところに満足せず、大いなる主が次なる場所を与えておられると信じ、出ていくようにというチャレンジにお応えする勇気を持つべきではないでしょうか。 詩篇148篇……すべて被造物はその存在をもって主をほめたたえています。主をほめたたえない被造物は人間だけではないでしょうか。最高の被造物である人間が創造主なる神さまをほめたたえるようになってこそ、すべてのものにはまことの回復が与えられます。私たちは最高の被造物として、今日このときこそまことの神さまをほめたたえましょう。 エレミヤ書8章……主に対して罪を犯し、そのただ中で悔い改めることをしないならば、人は傷つき、病みます。問題なのは、そのように傷ついて病んでいることを問題とも思わず、悔い改めをもっていやしを主に求めないことです。私たちの民もまた罪の中に傷つき、病んでいます。私たちはこの民に対し、手軽な処方しか宣言していないようなことはないでしょうか。心からの悔い改めを宣言する必要があります。それは自分の罪に向き合わせる、厳しいことではありますが、しなければなりません。 マタイの福音書22章……サドカイ人がイエスさまを罠にかけようとした律法の条文は、もともとが相続に関するものであり、それは地上にその家門を残すためのもの、間違っても、この地が終わって天国にみな入れられたあとのものではありません。サドカイ人はそこを(もしかするとあえて)混同していましたが、イエスさまはそのような律法解釈にも、正しい解釈とはこうであるとお示しになり、正してくださいます。私たちはみことばをきちんと読んでいるならば、牽強付会な解釈から守っていただけます。 <祈りの課題>この民がまことの癒やしをいただくべく、まず私たちからまことの悔い改めをすることができますように。

192 7月11日 ヨシ14-15詩146-147エレ7マタ21

ヨシュア記14章~15章……キルヤテ・セフェルを攻め取った際のカレブから下される褒美が、カレブの娘アクサと結婚することであったことを考えると、その地を征服したオテニエルにとっての大きなモチベーションは、アクサと結婚することだったと言えるでしょう。まさしくそれは主にあっての愛の力がそうさせたと言えます。そのようにしてカレブが2代にわたって新たな地を手に入れることは、老いてなおますます壮健さを与えてくださる神さまのご栄光を顕すということです。 詩篇146篇~147篇……君主のような人間の社会に君臨する存在は、人々を依存させるべく引きつけます。しかし神の民は、そのような存在を頼りとしてはならないと教えられます。なぜならば、そのような者たちはいかに力があるように見えても、救いがないからです。救いばかりは人の提供できるものではなく、まことの救い主なる神さまだけが提供することのおできになるものです。救い主なる神さまにだけ拠り頼む者となりましょう。 エレミヤ書7章……神の民のすることは、ただ神さまにだけ礼拝をささげることであるはずです。それなのに神さまから離れ、偶像に淫するようになるならば、いったいだれがそこから救い出すことができるというのでしょうか。そのように偶像に淫することは民が選んだことである以上、その選択の責任は民が負うべきです。しかし私たちはあきらめて、滅亡を受け入れるままであってはなりません。それでもなお恵みとあわれみを注いてくださる神さまに拠り頼み、とりなしの祈りをささげるべきです。 マタイの福音書21章……本来人は、父親にぶどう園で働けと言われても働きたくないような自己中心の罪人です。それでも神さまの恵みが臨むならば、父につながっている大いなる恵みに感謝し、働きたくない思いは働きたい思いに変えられ、そのようにして御父のみこころにかなう者となります。それは、神さまの愛や恵みなど名目ばかりで、従順など伴わない人とはまったく異なります。私たちは主にお従いする行動が伴って、神さまへの愛をあらわしているでしょうか。 <祈りの課題>私たちがとりなして祈ることを諦めず、最後まで恵みを求めていきますように。

191 7月10日 ヨシ12-13詩145エレ6マタ20 

ヨシュア記12章~13章……ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川を隔てた東側に土地を得て集住することとなりました。それは、イスラエル全体がともに戦って得られた戦利品であり、つまり、彼らがともに主のために戦ったという証しでした。彼らがなぜその土地が必要だったのかを筋道立てて説明したとき、モーセがそれを了承したのは、何よりも、戦いにおいても、その後の生活においても、イスラエルの共同体が保たれることが明らかになったからでした。私たちクリスチャンは世界に散り、それぞれの場で生活していますが、それはすべて同じ主が受け継がせてくださった恵みであり、どこに住むにしても、私たちはこの地上でみな、信仰の共同体です。 詩篇145篇……主の恵みは毎日ほめたたえ、世々限りなくほめたたえるものです。毎日おささげする賛美を絶やすことがないならば、やがてその賛美は世々限りなく、天の御国に至るまで続きます。また、私たちの日々の賛美は、のちの世へと受け継がれていき、こうして世々限りなく主を賛美することにもなります。私たちは今日も主の御名を讃美してまいりましょう。 エレミヤ書6章……神さまは祭司や預言者のような宗教指導者たちが、亡国の危機迫るエルサレムでこの期に及んでも、人々にいい加減な平安を宣言していることに激しい怒りを注がれました。私たち、主の民の共同体においてはどうでしょうか? 神さまのみこころに真摯に耳を傾け、礼拝の導き手、みことばのメッセンジャーとなっているならば、いい加減なことは言えないはずです。主に立てられた者は、「教師は格別に厳しいさばきを受ける」ことを肝に銘じ、信徒のたましいにお仕えする必要があります。 マタイの福音書20章……当時の障碍者はどれほど虐げられた立場にいたことでしょうか。イエスさまに向かってあわれみを求める叫びを発することさえ許されていませんでした。しかしイエスさまは、彼らを呼び寄せ、見えなかった目を開いてくださいました。差別するのはいつでも人間、罪人です。しかしイエスさまは、特に弱い立場にある人に対して優しいお方です。私たちにもイエスさまの心があり、この世界の弱い人たちに自然と目が向いているでしょうか? <祈りの課題>肉体的な障がいを持つために苦労していらっしゃる方々がイエスさまに出会うお手伝いを、私たちが積極的にしていくことができますように。

190 7月9日 ヨシ11詩144エレ5マタ19

ヨシュア記11章……ハツォルの王によってまとめられたカナンの王たちと兵士たちは、海辺の砂のように多く、その兵士が極めて弱小に見えたイスラエルに総攻撃を仕掛けようと待ち構えていました。しかし主は、イスラエルを奮い立たせ、彼らを滅ぼされました。主の御目に悪である存在は、極めて強大に見え、そのような者と闘っても勝ち目がないように思っていないでしょうか。しかし主がともにおられるならば、私たちは相手がいかに強く見えようとも、勝つことができます。主ご自身が私たちをとおして、勝利を与えてくださいます。 詩篇144篇……主はご自身の戦い、すなわち私たち主の民の戦いのために、私たちの手を鍛えてくださるお方です。私たちの日々の歩みは戦いであるということができるでしょう。しかし、訓練していなかったり、丸腰であったりしては、戦いに勝てません。主は私たちが勝利し、ご自身が栄光をお受けになるように、私たちを武装させてくださいます。私たちは日々の主との交わりにおいて、自分を武装させていただくのです。 エレミヤ書5章……主はご自身の愛する民がご自身から離れているならば、罰をもって懲らしめられます。しかし問題なのは、そのような懲らしめを受けながらも、その懲らしめを何とも思わず、相変わらず主から離れることを選択する、ということです。主はそのような者たちのことをなお罰せられてでも、ご自身に立ち帰り、いやされるようにと願っていらっしゃいます。私たちのすることは、破滅が来る前に早く主に立ち帰ることです。 マタイの福音書19章……妻を離縁することは律法にかなっているようでも、初めからそれが主のみこころではなかったのは、花婿なる主は花嫁なる教会を離縁されることは決してないからです。もっとも、淫らな行いにより妻を離縁することにおいてはそのかぎりではない、とイエスさまがおっしゃっているのは、主に選ばれたはずの人々が、主を捨てて偶像に行くならば、主は彼らのなすがままにされるという形でさばきを与えられる(ローマ1章)、ということに通じます。私たちがだれかと夫婦の関係にあるならば、それはキリストと教会の相愛関係であることを心に留め、その関係にふさわしくあるように祈ってまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちが霊的にせよ、肉的にせよ、姦淫から守られますように。

189 7月8日 ヨシ10詩142-143エレ4マタ18

ヨシュア記10章……イスラエルが戦うにあたって、主ご自身が介入し、勝利させてくださいました。そのご介入は、天から石を降らせられたり、太陽や月を天にとどめられたりといった、もはや人間業ではなく、創造主ご自身以外ありえない御業という形でのものでした。私たちも日々戦いを経験していますが、その戦いには主ご自身が介在してくださっています。私たちは自分の生活に主の御手が臨むことを、積極的に日々求めてまいりたいものです。 詩篇142篇~143篇……このとき詩人ダビデは、サウルに追われた身となっていて、いついのちを失うかわからない状況に置かれていました。そのような中で、主が自分に御目を注いでくださるように祈っています。私たちも困難のただ中にあって、孤立無援、苦しみしか感じられないときというものがあるでしょう。しかし私たちは、そのような時において、自分に対して特別に御目を注いでくださっている主ご自身を体験することができる祝福をいただきます。 エレミヤ書4章……神さまは主の民をとこしえまでも守ってくださると約束されたのに、待ち受けていたものは徹底した滅びであるならば、まるで自分たちが神さまに欺かれたように感じるでしょうか。しかし、欺いたのはむしろ民のほうです。神さまにお従いするのは形ばかりで、心は偶像に売り渡しています。そのような者たちに対して神さまがさばきの御手を下されるのは、欺きではなく、むしろ当然のことです。 マタイの福音書18章……つまずきを起こす、すなわち、神さまとの交わりを断ったり、証しにならない行動につながったりする要素は、私たちの生活の中から徹底して排除する必要があります。その行動は時に、手を切り落としたり、目をえぐり出したりするような、痛み、また喪失感の伴うことですが、御国に入れば完全なからだになることを考えると、地上での喪失や痛みなど、何ほどのこともないのではないでしょうか。 <祈りの課題>私たちの生活の中に、もしも主との交わりを断つ要素があるならば、多少の犠牲が伴ってでもそれを生活の中から除く決断をすることができますように。

188 7月7日 ヨシ9詩140-141エレ3マタ17

ヨシュア記9章……ギブオンのヒビ人が策略を巡らしてイスラエルの陣営に馳せ参じたとき、イスラエルは主の指示を求めず、彼らを生かしてしまいました。結局ギブオンのヒビ人は、イスラエルの奴隷となることによって生きながらえましたが、これはイスラエルに落ち度があったせいというより、神を恐れる彼らに神さまがあわれみをくださったゆえということができましょう。まことに、身を低くしてでも神さまを恐れることを知る者は、神さまが生かしてくださいます。 詩篇140篇~141篇……クリスチャン、すなわち主の人に敵対する者の特徴は、ことばづかいがとてもひどいということです。まさに、「蛇のように鋭い舌、唇の下にはまむしの毒」です。そのような毒舌で神さまと私たちをそしるので、私たちはどれほど傷つくことでしょうか。しかし詩人ダビデは、「自らの唇の害毒が彼らの頭の上を覆いますように」と祈っています。ひどいことばを語る者は、そのことばによってさばかれることになるというのが、主のみこころです。 エレミヤ書3章……主の民イスラエルとユダが神さまから離れ去ったのは、仕方なくしたことではなく、彼らの選択でした。神さまはそれを人の姦淫になぞらえられ、大いなる怒りをもってさばかれました。しかし神さまは同時に、いつまでも怒られないこと、彼らを回復してくださることを約束してくださいました。私たちにとっても、神さまよりも大事にしているものがもしもあったならば、それは霊的姦淫というものです。しかし、私たちが悔い改めてそれを捨てるならば、神さまはもはや怒られることはなく、私たちのことを受け入れてくださいます。 マタイの福音書17章……神の子であるイエスさまは神殿税を納める必要などないのですが、ユダヤの宗教共同体は、イエスさまやペテロが神殿税を納めないならば、そんな彼らのことを主のしもべとは認めないだろうという問題を抱えていました。イエスさまはそんな彼らのこともケアされ、だれから手に入れたわけでもない、「自然の恵み」のような銀貨をペテロに手に入れさせ、それでユダヤの宗教共同体を納得させました。私たちも主のしもべですが、公共のお金を納めることのいちばんの目的は、「クリスチャンが人につまずきを与えないため」です。人々は私たちが公共のお金を納めても何とも言わないでしょうが、納めなかったら私たちの行動を問題視し、果ては私たちの信じている...

187 7月6日 ヨシ8詩139エレ2マタ16

ヨシュア記8章……ヨシュアは、イスラエルが敵に勝利するまで、伸ばした杖を下ろすことはありませんでした。私たちに先立つイエスさまも、私たちが勝利される終わりの日まで働いてくださるお方です。私たちはヨシュアのように、イエスさまのように、教会が最後の勝利にあずかるその日まで、とりなしの祈りをもって支えていく存在です。 詩篇139篇……主が世界のすべてをお見通しであるということは、あなたのすべてを知っておられるということです。隠れて罪を行なって、神さまに知られていないかのように思い込むことなどできません。すべてをご存知です。しかしそれならば、私たちは、自分でもわからないような自分の弱さから、将来の道に至るまでのすべてをご存知の主に感謝し、主の導きに全面的にゆだねる信仰を与えていただくように、祈る必要があるのではないでしょうか。 エレミヤ書2章……主は、ご自身の民がいとも簡単にご自身を捨て、偶像の神々に拠り頼むようになっていることを嘆いておられます。普段は偶像を拝んでおいて、自分の身に危機が降りかかったときにはじめて、民はまことの神さまに祈るようになりますが、そのような民の姿に主は怒っておられます。私たちはどうでしょうか? いざというときになる前に、普段から神さまとの交わりを保っているならば幸いです。 マタイの福音書16章……イエスさまがご自身の十字架に至る道を示されたとき、ペテロは、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諫めましたが、イエスさまはそのようなペテロに向かい、下がれ、サタンと一喝されました。いのちを失う、それも惨憺たる形でいのちを失うことは、人には見ていて耐え難いことかもしれませんが、私たちはこのことを、主のご栄光という観点から見るべきです。主に従順にお従いする人のその道に対しては、人がとやかく言うことではありません。もちろん、危険な状況におある献身者のために私たちはお祈りする必要がありますが、一方で、危険な状況に志願する主の働き人の働きを止めるようなことをしてはなりません。 <祈りの課題>紛争や異教の迫害にさらされているなど、危険な地域での宣教に従事していらっしゃる働き人のために。

186 7月5日 ヨシ7詩137-138エレ1マタ15

ヨシュア記7章……主が聖絶せよと命じられたものは、どんなに欲しくても、またどんなに惜しくても、焼き滅ぼさなければなりません。なぜならば、それは神さまご自身が「いらない」とおっしゃったからです。いらないだけではありません。その品が残されているならば、それは人の心を神さまから物欲へと転じます。人がどんなに惜しがろうとも、それがあることは神さまの御目から見て、百害あって一利なしです。神さまが「捨てよ」と命じられたならば、どんな理由があっても捨てなければなりません。 詩篇137篇~138篇……主は私のためにすべてを成し遂げてくださる、そのように詩人は告白しています。主はこのブログをお読みの、まさしくあなたに注目していらっしゃいます。あなたのためにすべてのことを成し遂げてくださいます。そこまで言い切ることができるのは、あなたが、神のご栄光を現す器として用いられていて、すなわち、神のご栄光はあなたをとおして輝くからです。 エレミヤ書1章……主がひとたびお選びになった主の証し人は、主が強くしてくださいます。主はその証し人とともにいてくださると約束してくださっています。私たちも、この世においては主を証しする証し人です。私たちは決して経験不足でもなく、弱くもありません。主が遣わし、用いてくださるかぎり、私たちは証し人として歩むことができるのです。主との交わりの中で、その力をいただいてまいりましょう。 マタイの福音書15章……十戒に反する(この場合は「父と母を敬え」の戒めに反する)ことは、洗わない手でパンを食べることとは根本的に異なり、主のみこころをいたく損なうことです。宗教者は、いかにも宗教的な儀式には関心を持って集中しようとも、本来なすべき主のみこころを、宗教の名によっておざなりにすることを正当化してしまいます。私たちは普段の生活の中で、名前ばかりのクリスチャン生活にばかり関心を持ち、本来なすべき主のみこころを行うことに無関心になってはいないでしょうか? <祈りの課題>読者の中で父上、母上が健在な方は、主のみこころにかなった孝道を実践できますように。

185 7月4日 ヨシ6:6-27詩135-136イザ66マタ14

ヨシュア記6章6節~27節……エリコの町は聖絶されました。これは、罪深い私たちのうちに主の霊が臨み、私たちの古い人が滅ぼされることを象徴しています。その、神さまがともに歩まれる生き方が素晴らしいことを知るならば、エリコを再建するような呪わしいことをするがごとき、私たちの古い性質にあえて恋々とし、むかしのとおりに生きようとすることなど、してもいいことなのでしょうか。そのような生き方は、滅ぼされるべき生きたかであることを肝に銘じ、主の民らしく生きてまいりたいものです。 詩篇135篇~136篇……詩篇136篇は、1節ずつ、合計26回にわたって「主の恵みはとこしえまで」と繰り返しています。天地創造のわざも、出エジプトに象徴される救いのわざも、すべては主の恵みのゆえであり、その恵みはとこしえまでも続きます。そのとこしえの恵みによって私たちが造られ、救われ、永遠に神さまのものとなっていることを、心から感謝しましょう。 イザヤ書66章……今は終わりの時です。この時代において神さまを礼拝するのは、イスラエル民族だけではありません。すべての民族の中から選ばれて、人々が主を礼拝します。私たち日本の兄弟姉妹も、そのように主によってえらばれ、イスラエルの民とまったく同じように神さまを礼拝する、祝福された主の民です。 マタイの福音書14章……ゲネサレの地でイエスさまの衣の房にさわった人は、イエスさまこそが救い主、いやし主であるという信仰をはっきり持っていたゆえに癒やされたのでした。私たちにとって日々の主との交わりは、イエスさまご自身の前に出て、イエスさまに触れることであり、せめて衣の房にでも触らせていただきたい、という、切実な思いをもって御前に出ていくことです。私たちは今日、イエスさまの衣のすそだけにでも触れて、いやしをいただいているでしょうか? <祈りの課題>病気を抱えている兄弟姉妹の癒やしのために。

184 7月3日 ヨシ5:1-6:5詩132-134イザ65マタ13

ヨシュア記5章1節~6章5節……イスラエルがカナンの地に入ると、もはやマナが降ることはなくなり、その地の産物を食べるようになりました。荒野の旅は終わったのでした。私たちの地上の歩みも荒野の旅のようなものですが、いつかは終わりが来て、ほんとうの天の糧をもって養われる時が来ます。私たちはその日を目指し、今日も地上に労働の種を蒔いてまいりたいものです。 詩篇132篇~134篇……主はシオンの食物を祝福されるとあります。その食物をもって、主は貧しい者たちのことを養ってくださいます。神の都なる天国の糧はこの地上でも供給されるべきもので、それを供給するのは私たち、キリストのからだなる教会ですが、私たちは自分たちのことを養うのではなく、神の教会を養うべきです。 イザヤ書65章……天国の描写です。主のしもべたちは地上において大いに苦しむかもしれません。しかし主は、その者がご自身のしもべであるかぎり、天の御国に迎え入れてくださいます。天の御国は何にも比べることはできませんが、ここでは、人間の想像力のかぎりに合わせた形で、主ご自身が、天国とはどのような場所かを語ってくださっています。私たちは天国の民になりたいでしょうか? マタイの福音書13章……イエスさまはたとえを語られただけではなく、そのたとえを解き明かすみことばも語ってくださいました。この解き明かしを学んだ弟子たちは、イエスさまから、わかりましたか、と尋ねられたら、はい、とお答えしました。そうです。イエスさまのみことばは、時に難しいですが、理解できることが前提として語られています。私たちはみことばが難しいからといって、読むことや学ぶことをやめたりしてはなりません。 <祈りの課題>私たちの日々のみことばの学びが祝福されますように。

183 7月2日 ヨシ4詩129-131イザ64マタ12

ヨシュア記4章……ヨシュア率いるイスラエルの一隊がヨルダン川の川底から十二部族分の石を取り、それを積み上げて記念とした、その究極の目的は「神の民が主を恐れる」ためでした。乾いた水底から取り出された石という実物は、いやがうえにも主の奇跡のみわざを連想し、主を恐れさせるに充分なものだったことでしょう。こんにち私たちにとっては、今手にしている聖書に書かれた主のみことばこそが、そのヨルダン川の水底の石の役割を果たしています。みことばを読むとき、私たちは同じ御業をもって私たちに臨まれる主に出会い、主を恐れるのです。 詩篇129篇~131篇……夜回りが夜明けを迎えるまでは、仕事で真っ暗闇の街を歩き回るという緊張の中にあり、そんな彼にとって夜明けとは、明るく闇が照らされる希望に満ちた時間であり、一日の仕事から解放される時間です。私たちにとっての主にまみえることにはそれ以上の意味があり、それは、この暗闇の世で罪人たちにもまれながら糧を得る苦しみの働きが明け、主が永遠の休息に迎えてくださるということです。私たちはその終わりの日を待ち望みつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいものです。 イザヤ書64章……正しくあろうとしたイスラエルの民は罪のただ中にあったために、主は激しくお怒りになり、彼らのことを大いに懲らしめられました。しかし、その懲らしめの御手は、彼らにはあまりに激しすぎるものでした。この厳しさ、むなしさのゆえに、イザヤは主の民を代表して神さまに呼ばわっていますが、このように神さまに祈り求めることができることは、むしろ祝福とも言えることではないでしょうか。 マタイの福音書12章……宗教的利権に凝り固まった者たちは、障害を持って苦しむ人のことさえも、利権の手段にします。その人に対して人として接され、癒しを与えてくださるイエスさまのことを、むしろ無きものにしようとするわけです。いったい、私たち教会にとって、イエスさまご自身と、自分たちが後生大事に守っている宗教的慣習との、どちらが大事なのでしょうか。 <祈りの課題>私たち教会をむしばむ宗教的偽善が明らかにされ、私たちが速やかに悔い改めますように。

182 7月1日 ヨシ3詩126-128イザ63マタ11

ヨシュア記3章……未知の地を行くイスラエルの民は主の契約の箱を目標に歩いていくように命じられる一方で、その契約の箱と十分な距離(約400メートル以上)を取ることも同時に命じられます。主は力強く導いてくださるお方ですが、近づくことの許されるお方ではありませんでした。今このようにして私たちは、主のお導きをいただきながら、イエスさまによって主に大胆にお近づきすることができるとは、なんという大いなる恵みでしょうか。 詩篇126篇~128篇……私たちのうちの子どもたちは、主の祝福の賜物です。私たちは子どもたちの存在をとおして、なんと多くのことを学ぶことでしょうか。神さまを素直に受け入れ、素直な気持ちでお祈りすることができる幸いを、私たちは子どもたちを通して学びます。私たちのうちの子どもたちを大切にすることで、私たちは神さまからの大いなる祝福をいただくことができます。 イザヤ書63章……私たち主の民は苦しみますが、この苦しみに主は無関係で、超然としておられるのではありません。かえって、私たちが苦しむとき、主がともに苦しんでくださっています。それほど主は私たちのことを気にかけてくださり、私たちのことを愛する子どもとして扱ってくださるのです。私たちはどれほど愛されていることでしょうか。 マタイの福音書11章……聖書に啓示されている主のみこころは、学問を重ねた者に対してではなく、幼子のように神の国を受け入れる人に示されています。学のある者は、みことばをいろいろ批評するでしょうが、果たして素直に神の国を受け入れているでしょうか。一方、幼子のような人は、学問的にみことばを批評し、分析するということはできないかもしれませんが、素直に神の国を受け入れているので、神さまはそのような人を喜んでくださっています。 <祈りの課題>神の国を素直に受け入れる幼子のような人が、さらに教会に増し加えられますように。

181 6月30日 ヨシ2詩123-125イザ62マタ10

ヨシュア記2章……ラハブは、エリコが主のさばきの対象となっていること以上に、主ご自身を恐れました。それゆえ、自国の兵士たちよりも主のしもべなる兵士たちを優遇し、そのいのちを守りました。イスラエルの兵士たちはラハブとその一族のいのちを守ることを約束しましたが、それはとりもなおさず、主の祝福をラハブの一族にもたらすことを意味していました。私たちはいざというとき、この世の勢力と主のしもべの、どちらを優先するでしょうか? 詩篇123篇~125篇……主は御民を悪しき者どもから守ってくださると約束してくださいました。また同時に、御民が悪い道に踏み込むことのないように、従順の生き方をするならば必ず守ってくださるという約束をくださいました。まことに、主に敵対する悪しき者と、きよい主につくきよい御民がまじりあうことは、主のみこころにかないません。罪人である私たちはともすると悪の道にあこがれ、傾いてしまう者ですが、そのような弱い者であることを私たちは認め、主に拠り頼んでまいりたいものです。 イザヤ書62章……主を休ませてはならないとはどういうことでしょうか? それは、私たち主の民が救われるように祈りつづけるその祈りを絶やしてはならない、ということです。私たちがこの世の価値観や敗北主義に傾き、勝利の主のご栄光を現さなくてもかまわない、とばかりに、祈ることをやめるならば、そのような者たちに主はいったいどのように働いてくださろうというのでしょうか? 私たちは主を呼び求めることをやめてはなりません。私たちを輝かせてくださるのは主のみこころです。そのみこころを信じて、今日も祈りつづけるのです。 マタイの福音書10章……私たちはイエスさまを主人とする、主のしもべたちです。イエスさまに敵対する者たちは、イエスさまのことを悪魔呼ばわりします。そのような扱いを受けているイエスさまのしもべたちが、なおひどい扱いを受けるのは当然のことであると、イエスさまご自身がおっしゃいました。私たちはイエスさまのゆえに人々から悪口を言われ、ひどい扱いを受ける定めです。その定めにあることを恐れたり、恥じたりするならば、私たちは御国にふさわしくありません。それでも恐れてしまう心があるならば、その心をイエスさまが大胆な心に変えてくださるように、祈ってまいりましょう。 <祈りの課題>私たちの日々の証しの生活のために。特に、イエス...

180 6月29日 ヨシ1詩120-122イザ61マタ9

ヨシュア記1章……主はヨシュアに、強く、雄々しくあれと繰り返し命令されています。それは、ご自身のしもべモーセがヨシュアに命じた律法のすべてを守り行うためであるということです。主のみことばを堂々と守り行うには、強く、また雄々しくある必要があります。そのように力強くなるために、私たちはどれほどお祈りする必要があることでしょうか。特にヨシュアのように、群れのリーダーに立てられた人は、群れを勝利させるために時間も労も尽くしてお祈りに打ち込む必要があります。 詩篇120篇~122篇……エルサレムの平和のために祈れ、とありますが、ダビデの時代のエルサレムとこんにちのエルサレムはその持つ意味も役割も異なるから祈る必要がない、と考えてはなりません。聖書の中で、これほどまでにスポットライトが当たっている都市は、エルサレムをおいてほかにありません。私たちはいかなる神学的見解を持っていようとも、神さまが長い時間をかけてエルサレムを愛でてこられたその歴史的事実に根差し、エルサレムの平和のために祈ってまいりたいと思います。 イザヤ書61章……主の民の地上の歩みは、悲しみと嘆きの連続ではないでしょうか。しかし主は、そのように主の民を苦しめる者たち、すなわち主のご栄光をいたく汚す者たちに復讐し、苦しむ民の縄目を解き放つ恵みの年を来たらせてくださいます。この恵みの年、ヨベルの年は、イエスさまが来たらせてくださるものです。 マタイの福音書9章……断食の祈りはいまなお意味のあるものですが、問題なのは、そのような苦行の祈りに「挑戦」することで神の祝福を引き寄せようとする「宗教的行い」です。イエスさまは、神の子なるご自身がともにおられる以上、私たち神の民のすることは「楽しむ」ことであり、「あえて難行苦行で神の祝福を引き寄せる」ことではないと喝破されました。それでも私たちの信仰生活においては、食べるような快楽が主との交わりに優先し、花婿が自分のそばからいなくなっているように思わされるような事態は生じるもので、そのようなとき私たちは、食のような快楽を断ってでも主イエスさまとの交わりに専心する必要があります。 <祈りの課題>エルサレムに平和があるように。

179 6月28日 申33-34詩119:145-176イザ60マタ8

申命記33章~34章……モーセがその時代のイスラエルの民のただ中に存在した理由は、あらゆる力強い権威、あらゆる恐るべき威力を振るうためでした。そのような主のしもべはもはやそののち存在することはなかったのは、モーセが取り次いだみことばがすべて主の民、しるしと不思議を行われる神の民にとっての基礎になるためでした。私たちの手にしているみことばも、かつてイスラエルが耳にしたのと同じみことば、しるしと不思議を行われる神さまのみことばです。 詩篇119篇145節~176節……人はみな、羊のようにさまよっています。しかし、自分自身がそのようなさまよえる羊でることを自覚できる人は幸いです。そのような人は、どこに戻ればいいかがわかっているからです。詩人は、自分がさまよいながらも、主の仰せをなお忘れないでいることを告白しています。私たちもさまようような弱い者ですが、私たちは主の仰せなるみことばに心を留めているかぎり、さまよってもなお牧者なる主のもとに留め置いていただく者としていただけます。 イザヤ書60章……主が恵んでくださるイスラエルの祝福が述べられています。国々が仕えるようになる、ひれ伏す、これは、世界の片隅の小国、小民族には身に余るような光栄です。私たちもわが身を省みると、とても卑小な存在に思えないでしょうか。しかし、神さまはそのような私たちのことを、あらゆる国々、あらゆる民族にまさって偉大な存在としてくださいます。イエスさまを信じる信仰のゆえです。 マタイの福音書8章……イエスさまにお従いするということは、自分の親族を葬る、すなわち、最後まで面倒を見ることに優先するというのが、御国の原則です。私たちは神さまの働き(ベスト)を優先させるならば、それ以外の大事なこと(ベター)のために働いてくれる人は必ず与えられると信じて、献身すべきお方に献身する必要があります。 <祈りの課題>家族の問題(特に介護)のために、牧会の働きがままならないでいる働き人のために。