183 7月2日 ヨシ4詩129-131イザ64マタ12
ヨシュア記4章……ヨシュア率いるイスラエルの一隊がヨルダン川の川底から十二部族分の石を取り、それを積み上げて記念とした、その究極の目的は「神の民が主を恐れる」ためでした。乾いた水底から取り出された石という実物は、いやがうえにも主の奇跡のみわざを連想し、主を恐れさせるに充分なものだったことでしょう。こんにち私たちにとっては、今手にしている聖書に書かれた主のみことばこそが、そのヨルダン川の水底の石の役割を果たしています。みことばを読むとき、私たちは同じ御業をもって私たちに臨まれる主に出会い、主を恐れるのです。
詩篇129篇~131篇……夜回りが夜明けを迎えるまでは、仕事で真っ暗闇の街を歩き回るという緊張の中にあり、そんな彼にとって夜明けとは、明るく闇が照らされる希望に満ちた時間であり、一日の仕事から解放される時間です。私たちにとっての主にまみえることにはそれ以上の意味があり、それは、この暗闇の世で罪人たちにもまれながら糧を得る苦しみの働きが明け、主が永遠の休息に迎えてくださるということです。私たちはその終わりの日を待ち望みつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいものです。
イザヤ書64章……正しくあろうとしたイスラエルの民は罪のただ中にあったために、主は激しくお怒りになり、彼らのことを大いに懲らしめられました。しかし、その懲らしめの御手は、彼らにはあまりに激しすぎるものでした。この厳しさ、むなしさのゆえに、イザヤは主の民を代表して神さまに呼ばわっていますが、このように神さまに祈り求めることができることは、むしろ祝福とも言えることではないでしょうか。
マタイの福音書12章……宗教的利権に凝り固まった者たちは、障害を持って苦しむ人のことさえも、利権の手段にします。その人に対して人として接され、癒しを与えてくださるイエスさまのことを、むしろ無きものにしようとするわけです。いったい、私たち教会にとって、イエスさまご自身と、自分たちが後生大事に守っている宗教的慣習との、どちらが大事なのでしょうか。
<祈りの課題>私たち教会をむしばむ宗教的偽善が明らかにされ、私たちが速やかに悔い改めますように。
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