196 7月15日 ヨシ22使2エレ11マタ25
ヨシュア記22章……ルベン族とガド族がヨルダンの川向うに新たに祭壇を築いたのは、全イスラエルに対する反逆のためではなく、むしろイスラエルの神を大切に思う思いからだということが伝わって、全イスラエルは平安を得ました。神さまに対するまことの信仰は、どんな人にも利己的な思いからの解放を与え。ともに平安に導きます。
使徒の働き2章……甘いぶどう酒に酔っぱらうのは子どもであるように、聖霊に酔う私たちのことを子ども扱いする人はいます。しかし、そのように嘲る者たちは罪人であるゆえにキリストを十字架につけたというメッセージを私たちは伝える義務があり、これは子どもであるなしにかかわらない、真剣なことです。この働きは、聖霊に酔う人でなければ担うことができないゆえ、私たちは聖霊に酔う者とされていることを誇りとする必要があります。
エレミヤ書11章……主はご自分の民を瞳のように守られます。民がわざわいにあうとき、つねに救い出してくださいました。だが民はなんと恩知らずなのか、救い主なる神さまに背を向け、偶像に走る選択をしました。そのようなことをするならばどういうおつり扱いを主が下されるか、知っての上でです。主はその民の選択にふさわしいことをしていらっしゃるだけで、けっして恐ろしいだけの神さまだから民を罰しておられるわけではありません。私たちも大いなる懲らしめにあうことがありますが、そのとき私たちのすることは、神さまを恨むことではなく、悔い改めです。
マタイの福音書25章……イエスさまをほんとうに信じているならば、弱い立場にある人に施しをするという形でキリストの愛を実践してしかるべきです。そうでないならば単なる個人的な宗教行為に堕してしまいます。そういう、自己満足のような態度を、主は厳しく罰せられます。私たちは主との交わりを深め、キリストの愛を隣人に実践する生き方を具体的にしてまいりたいものです。
<祈りの課題>私たちが困窮している隣人に目を留め、具体的に愛を実践するキリストのしもべとなることができますように。
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