180 6月29日 ヨシ1詩120-122イザ61マタ9

ヨシュア記1章……主はヨシュアに、強く、雄々しくあれと繰り返し命令されています。それは、ご自身のしもべモーセがヨシュアに命じた律法のすべてを守り行うためであるということです。主のみことばを堂々と守り行うには、強く、また雄々しくある必要があります。そのように力強くなるために、私たちはどれほどお祈りする必要があることでしょうか。特にヨシュアのように、群れのリーダーに立てられた人は、群れを勝利させるために時間も労も尽くしてお祈りに打ち込む必要があります。

詩篇120篇~122篇……エルサレムの平和のために祈れ、とありますが、ダビデの時代のエルサレムとこんにちのエルサレムはその持つ意味も役割も異なるから祈る必要がない、と考えてはなりません。聖書の中で、これほどまでにスポットライトが当たっている都市は、エルサレムをおいてほかにありません。私たちはいかなる神学的見解を持っていようとも、神さまが長い時間をかけてエルサレムを愛でてこられたその歴史的事実に根差し、エルサレムの平和のために祈ってまいりたいと思います。

イザヤ書61章……主の民の地上の歩みは、悲しみと嘆きの連続ではないでしょうか。しかし主は、そのように主の民を苦しめる者たち、すなわち主のご栄光をいたく汚す者たちに復讐し、苦しむ民の縄目を解き放つ恵みの年を来たらせてくださいます。この恵みの年、ヨベルの年は、イエスさまが来たらせてくださるものです。

マタイの福音書9章……断食の祈りはいまなお意味のあるものですが、問題なのは、そのような苦行の祈りに「挑戦」することで神の祝福を引き寄せようとする「宗教的行い」です。イエスさまは、神の子なるご自身がともにおられる以上、私たち神の民のすることは「楽しむ」ことであり、「あえて難行苦行で神の祝福を引き寄せる」ことではないと喝破されました。それでも私たちの信仰生活においては、食べるような快楽が主との交わりに優先し、花婿が自分のそばからいなくなっているように思わされるような事態は生じるもので、そのようなとき私たちは、食のような快楽を断ってでも主イエスさまとの交わりに専心する必要があります。

<祈りの課題>エルサレムに平和があるように。

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