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119 4月29日 民6詩40-41雅4ヘブ4

民数記6章……24節から26節は、礼拝の祝祷の時間にも唱えられる祝福のことばです。このみことばによると主の祝福は、守ってくださること、恵んでくださること、平安をくださることに表れます。敵に囲まれていて格別の守りを必要としたいにしえの弱小民族、イスラエルは、こんにちにおいては、サタンと悪霊どもの軍勢に満ちたこの世において弱い立場で生きる私たちです。しかし主は私たちに格別に御顔を向けてくださり、守り、恵み、平安をくださいます。 詩篇40篇~41篇……主は、いけにえやささげ物(宗教行為)をお喜びになりません。むしろ主が喜んで受け入れてくださるのは、みこころを守り行うことです。私たちの人生は思えば、恵みによって危機から守っていただくことばかりではないでしょうか。このような中で私たちは主の御名をほめたたえ、ますます、みこころを守り行おうと意識するのです。 雅歌4章……私たちは主の御名をことばを尽くしてほめたたえますが、主も私たちのことを愛しておられるゆえに、ことばを尽くしてほめたたえてくださるということを、私たちは考えたことがあるでしょうか。雅歌のこの豊かなことばをご覧ください。主はこのように私たち、主の愛を受けた者たちの美を歌ってくださいます。 ヘブル人への手紙4章……イエスさまは私たちの弱さも傷も、すべてご存知です。人としてこの地上を生きられ、あらゆる苦しみを通ってこられたイエスさまは、私たちが何で傷つき、何で苦しんでいるか、よくご存じで、そんな私たちに寄り添ってくださいます。イエスさまはご自身が神の御子だからと、私たちのことを傲然と見下ろされるようなお方ではありません。私たちはいつもイエスさまの御前に、祈りをもって大胆にお近づきしたいものです。 <祈りの課題>セルフイメージの低い兄弟姉妹が、そんな自分たちのことを特別に愛してたたえてくださる主の愛を一心に受け取り、元気になれますように。

118 4月28日 民5詩39雅3ヘブ3

民数記5章……ねたみについてのおしえ。主は、特殊な調合によってつくられる「のろいをもたらす水」を、不倫した疑惑のある女性に飲ませるということをお許しになりますが、この「儀式」は、不倫の疑惑があれ、潔白であれ、女性が共同体の中で主の御前に引き出されることであり、共同体の中に働かれる主のお取り扱いを受けることになります。こんにちにおいてはもちろん、主の共同体においてこのようなことは行いませんが、私たちが罪を犯しているにせよ犯していないにせよ、主の共同体の中でたえず私たち自身が問われているということに変わりはありません。 詩篇39篇……悪しき者は神さまを認めないゆえに愚か者でもありますが、その者の責めることば、あざけることばを受けても、私たちは何か言い返すことで、自分たちも彼らと同じレベルの愚か者となってはいけません。それゆえに主は私たちに、悪しき愚か者の前で沈黙することを求められますが、それはとてもつらいことです。私たちは口を開くことなしには、私たちを生かし、どんな人のことも生かしてくださる主を証しすることはできないからです。しかし主はやはり私たちがつらくても、沈黙することをお求めになります。それでも主は、ことばにならない私たちの心の叫びを聞いてくださり、その叫びにふさわしく応えてくださいます。 雅歌3章……恋い慕う人を捜し求め、ついにはしっかり捕まえて奥の間に連れていく乙女の姿は、イエスさまを捜し求め、奥まった部屋(マタイ6:6)でのイエスさまとの交わりを願う、私たちにとってのモデルです。私たちはこれほどまでにイエスさまを求め、慕っているでしょうか。 ヘブル人への手紙3章……モーセに率いられた荒野の民のかたくなさは、律法書(特に出エジプト記、民数記)を読めばわかります。しかし、彼らがかたくなだったのは、人間だからしかたないことだったのではありません。むしろ彼らの姿は、私たち救いを全うすべき者たちにとって反面教師です。私たちは彼らの姿を見てわがふりを直し、かたくなさから解放されるように祈る必要があります。 <祈りの課題>この世のだれよりもイエスさまを慕い求める信仰が、私たちを含めたすべてのクリスチャンの間に育ちますように。

117 4月27日 民4詩38雅2ヘブ2

民数記4章……ケハテ族、ゲルション族、メラリ族は、レビ族の中から特に、幕屋に関する働きをする献身者として選抜されました。主に礼拝をささげるうえで、特に主の宮の奉仕をする献身者が必要とされるということが、このみことばから裏づけられます。ただし、彼らはほかの部族より「偉い」わけではなく、あくまで主の宮のための献身者として聖別されているだけであり、それはこんにちの、牧師や宣教師のような献身者も同様です。 詩篇38篇……聖徒はときに、罪のゆえに激しく打ちひしがれるものです。その罪ゆえに主に激しく責められることがリアルに感じられてならないのです。しかし、そのような者でも、主の御名を叫び求める権利までは取り去られてはいません。私たちが責められる思いになるとき、私たちのすることは、主から身を避けることではなく、積極的に主の御名を呼び求めることです。 雅歌2章……歌い手は何度となく、愛する人に呼び掛けています。イエスさまは私たちのことを「愛する人」と呼んでくださいます。私たちもイエスさまに対して「愛する人」と呼びかけることが許されています。なんと感謝でうれしいことでしょうか。 ヘブル人への手紙2章……イエスさまは試みを受け、苦しまれました。それは私たち「アブラハムの子孫」、信仰をもって救いに定められた神の子どもたちを助け出してくださるためです。このように十字架の苦しみをもって私たちを救い出してくださったイエスさまは、私たちのことを兄弟と呼んでくださいます。 <祈りの課題>私たちの教会の献身者(牧師や宣教師)の働きや生活が支えられるように。

116 4月26日 民3詩37雅1ヘブ1

民数記3章……レビ人は、イスラエルのすべての長子の代わりを果たす存在です。主の民の共同体が御前にふさわしくあるためには、その共同体は一定の献身者の存在を必要とします。しかし、主の御前に近づく祭司に資格が必要だったように、献身者にもそれ相応の資格が必要です。現代の教会においては、神学校卒業と教会組織からの按手が大きな目安となります。 詩篇37篇……主とその民に敵対する悪しき者はこの地上でほしいままに振る舞い、私たちは彼らの横暴さ加減を見て、彼らの天下はこれからも続くと思って暗澹たる気持ちになるかもしれません。しかし、主は彼らのことを必ずおさばきになります。ほんとうに勝利されるのは主なる神さまであって、悪しき者たちではありません。 雅歌1章……ほんとうの愛は片思いや支配・被支配の関係ではなく、お互いが愛のことばを呼び交わすような交わりであってしかるべきです。私たちはなかなか、雅歌で描かれているような男女の関係を、たとえ夫婦の間でも(夫婦の間だからなおさら?)照れくさくて持ちにくいものかもしれませんが、イエスさまと私たちの間には、このような愛の交わりが成立してしかるべきです。 ヘブル人への手紙1章……イエスさまは御使い(天使)よりもはるかにまさったお方であることが述べられています。よく知らない人は、キリスト教会が天使礼拝をするかのように思っているようですが、御使いは私たち人間に仕える霊であり、礼拝の対象でもなければ、崇敬を受けるべき対象でもありません。しかし、イエスさまは創造主であり、また救い主であり、私たちの礼拝を受けるべきお方です。 <祈りの課題>世界中のクリスチャン夫婦が健全な愛の関係を保ちますように。

115 4月25日 民2詩36伝12ピレ

民数記2章……主は、一族ごとに軍団を形成して進んでいくように命じられました。大事なことは、「軍団というグループの中にとどまる」ことです。主の民として生きていくには、単独では無理です。どこかの信仰の共同体に属し、その共同体での責任を果たす必要があります。こんにちにおいてのそれは、教会です。 詩篇36篇……悪者のことばは私たちを傷つけます。時にそのことばは私たちの心の奥底まで届き、忘れようにもなかなか忘れることができません。そんなとき私たちのすることは、雲にまで及ぶ大いなる主の恵みを味わい知ることです。私たちが詩篇のみことばを熟読玩味するとき、主のその大いなる恵みを知り、その恵みのもとに傷からの癒しをいただくことができます。 伝道者の書12章……人間のすべきことは、神を恐れること、神の命令を守ること、これだけです。私たちは神を恐れているなら、神の命令を聞いただけにとどめず、その命令を実際に具体的に実践するはずです。この聖書通読も、単なる人生の素養のために読むのでは意味がなく、その日々のみことばを具体的に守り行うことで、クリスチャンたちがともにキリストの似姿に変えられ、終わりの日にイエスさまの御前に恥ずかしくなく立てる日に備えるためにすることです。 ピレモンへの手紙……パウロはオネシモのことで、ピレモンの前にとりなし手となりました。これは、イエスさまが私たち罪人のために御父の前でとりなし手となってくださった、その愛の行いにならう行動です。私たちの教会の中にも人間関係でつまずいている人がいるかもしれません。そのような人たちも主のみからだのひと枝として振る舞えるように、私たちは何ができるでしょうか。 <祈りの課題>傷つきやすい兄弟姉妹が、主の恵みによって心を強くして歩んでいけますように。

114 4月24日 民1詩35伝11テト3

民数記1章……十二部族が数えられたのは、のちに控えている戦いに備えるためです。そのような中にあっても、レビ族の数は登録されませんでした。主に礼拝をささげる(ために働く)ということは、それほどイスラエルの民にとって特別なこと、大事なことであり、世的なことと混同されてはならないことでした。 詩篇35篇……私たちはときに、敵の攻撃にさらされることがあります。しかし私たちは窮することはありません。なぜならば、全能なる神さまが私たちの味方であり、戦ってくださるからです。私たちのすることは、神さまの御名を必死に呼び求めることです。 伝道者の書11章……若いときにはどんな自由も利くように人は思いがちですが、その若いときの「あやまち」も、例外なく主のさばきの対象になります。特に主の民に属する若者は、自分はあのとき若かったなどという言い訳をしてはいけません。若かろうとも主の御前では責任を問われるもので、私たちは若い日より自分の罪を認め、悔い改めることを常とする必要があります。 テトスへの手紙3章……分派をつくることはなぜ除名されるべき罪なのでしょうか? それは、そのような者は分派をつくることによって、教会のコントロールから脱した、自分のしたい放題のカルトを形成することになるからです。このような者の聖書解釈を正しいとか、実のあるものとか考えて、従おうとしてはなりません。 <祈りの課題>日本と世界の教会がカルトから守られますように。インターネットサイト「異端・カルト110番」の働きのために。

113 4月23日 レビ27詩34伝10テト2

レビ記27章……このみことばは主の聖なるものに関して、きわめて客観的な基準を提示しています。このことには、人間的な主観によって主にささげられるものの善し悪しが決まることを避けるという、大きな目的が込められています。私たちも、主にささげる生活には人間的な主観を極力込めないようにし、主がお定めになった基準にしたがってささげていくように、自他ともに努める必要があります。十分の一の献金、主日の聖別は、その最たるものでしょう。 詩篇34篇……ダビデはこの詩を詠んだとき、とっさの機転で狂人になったふりをして敵の攻撃をかわしましたが、それは屈辱ともいうべき行動でした。しかし主は、ダビデが落ち込んだままにしてはおかれませんでした。主はダビデを引き上げ、敵の手から引きつづき守ってくださいました。私たちも敵のなぶりものでいつづけることはありません。主は救い出してくださいます。 伝道者の書10章……食事には2つの目的があります。ひとつは楽しむため、もうひとつは力をつけるため。しかし、臨戦態勢にある人生のただ中で、楽しむためだけに食事をしているようならば、その食事は身を滅ぼします。私たちにとって食事は、主の栄光を現す日々の戦いにおいて力をつけるためのものです。 テトスへの手紙2章……神さまが私たちを恵みもて救ってくださったということは、私たちが以前の悪い生活を改めることのないまま、そのまま生きつづけていいということではありません。「不敬虔とこの世の欲を捨て」「慎み深く、正しく、敬虔に生活」するように、主の恵みは私たちのことを招いています。 <祈りの課題>私たちクリスチャンが救いの恵みに感謝して、神と人の前に正しい生き方を目指していけるように。