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365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

歴代誌第二36章……みことばとその語り手をさげすむ群れには、主がそれにふさわしいお取り扱いをされます。そのような群れには主の宮はふさわしくなく、主が敵の手を用いて宮もろとも国を滅ぼされました。しかし、時が来て、主は民を憐れんでくださって、地に回復をもたらしてくださいました。私たちもまた、主のみことばとその語り手をさげすんだ民の歴史につながる者であり、こうして救われて主の民にしていただいているのは、ひとえに主のあわれみのゆえです。私たちは主がこの地を真に回復してくださるように、あわれみをこれからも求めつづける者となりたいものです。 ヨハネの黙示録22章……主は、いのちの水が欲しい者はただで受けよ、とおっしゃっています。福音というものはその本質において、ただで(無料で)分かち合われるべきものです。私たちはあまりに安易に、自分たちのミニストリーが経済的に不足していると、大々的に訴えたりしてはいないでしょうか。この点で私たちは、主が満たしてくださるという信仰にまず立つべきであり、そして、分け与えるときには握った手を堂々と開いて分かち合う者となりたいものです。 マラキ書4章……モーセとエリヤによって証しされたお方はどなたでしょうか? イエスさまです。イエスさまにほんとうにお従いする者は、高ぶることも悪を行うこともなく、義の太陽と癒やしにふさわしい、主の御名に対する恐れが伴います。まことに旧新約すべての聖書のみことばは、イエスさまにお従いすることをもって完成されるものであり、私たちはその御業に参与させていただいている者として、ますます主との交わりの中に生かしていただきたいと願いましょう。 ヨハネの福音書21章……イエスさまは、ペテロたち傷心の弟子たちに対し、おなかがすいただろう、さあお食べ、と、朝ご飯を振る舞ってくださる優しいお方です。もちろんそのあとには、ペテロたちには極めて厳しい弟子の道が控えていましたが、イエスさまは厳しいだけのお方ではありません。その道を堂々と歩みおおせることができるように、力を与えてくださいました。私たちもイエスさまによって力づけられて、弟子の道を歩む者とされています。 <祈りの課題>今年一年の主とともに歩んだその歩みに感謝し、新たな年、ますます主との交わりに励む私たちとなりますように。

364 12月30日 Ⅱ歴35黙21マラ3ヨハ20

歴代誌第二35章……ヨシヤは民を歴史的な礼拝に導いたという点で素晴らしい王でしたが、エジプトに対して起こした野心によって滅びました。しかしこの野心は、単にヨシヤを滅ぼしただけではありません。ヨシヤに率いられるユダ王国を滅ぼすことにつながったのでした。まことに、神の民のリーダーがいかなる判断をするかということは、その群れの命運を左右することです。私たちは、主の民に仕える献身者が肉的な野心から守られるよう、祈って支える必要があります。 ヨハネの黙示録21章……私たち人間はだれもが、死ぬことを恐れます。それは、その死の向こうにある「火と硫黄の池」の存在を、だれしもどこかで意識しているからではないでしょうか。しかし、イエスさまを信じる者、すなわち、子羊のいのちの書にその名の記された者は、もはや死を味わうことがありません。まことのいのちなる神さまと、永遠にともに生きることになります。これ以上素晴らしい福音があるでしょうか。この素晴らしい福音ゆえに私たちは、イエスさまを人々に宣べ伝えるのです。 マラキ書3章……神さまは罪人を憐れんでくださるお方ですが、それでも、正しい者と悪しき者、神さまに仕える者と仕えない者が同じ取り扱いを受けるわけではありません。罪赦されたならば、神さまにお仕えする行動へと実を結んでしかるべきであり、その行いがあってこそ、人々の前にいつくしみ深い主が証しされ、みことばは宣べ伝えられます。その働きのために用いられることは、人にとって最高の祝福です。 ヨハネの福音書20章……復活のイエスさまが私たちに与えてくださった権威は、人の罪を赦す権威です。それはイエスさまが十字架の上で実現してくださったことであり、私たちもイエスさまを主と信じ受け入れた主の弟子であるゆえに、イエスさまの御名によって人々の罪を赦す権威が与えられています。私たちにとって罪を赦すことは、イエスさまに倣うことである以上、弟子の歩みの本質といえることです。罪を赦すということは私たちにとっては極めて難しいことですが、日々、私たちのこの大きな罪を赦してくださったイエスさまと深く交わることをとおして、私たちは人を赦す歩みへと踏み出すことができるようになります。 <祈りの課題>私たちにとって赦しがたい人を赦し、平安をいただくことができますように。

363 12月29日 Ⅱ歴34黙20マラ2ヨハ19

歴代誌第二34章……みことばは、神さまはご自身に対して不従順な者たちに対して激しい怒りを下されるお方だということを示しています。私たちがほんとうにみことばを学んでいるならば、神さまというお方はただ優しいだけのお方ではないことがわかります。私たちに必要なのは、このお方の前に徹底してへりくだって罪を認める、悔い改めです。 ヨハネの黙示録20章……いのちの書にその名が記されていない者は、終わりの日に火の池に投げ込まれ、永遠に滅ぼされるというさばきを受けます。それゆえ、人々はイエスさまとその十字架を信じて御父の怒りから免れさせていただく必要があります。私たちはもし、この世界の愛する人々が滅ぼされることを望まないならば、人々にイエスさまを伝えてしかるべきではないでしょうか。 マラキ書2章……主の民が霊的かどうか、主のみこころにかなっているかどうかということは、結婚という生活をどのようにその者(特に男性の側)がとらえているかということによって測られます。夫婦間で不仲になったり距離をおいたりして、離婚ということを考えるようでは、それは人をひとつにしてくださった主のみこころを踏みにじることになります。まことに、キリスト者にとっての結婚というものは、双方が主との関係をいかに保っているか、主との交わりの中にいかにとどまっているかに左右されるものです。 ヨハネの福音書19章……アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスさまの十字架を目撃して、それまでのこそこそ隠れていたおのが身を恥じて、イエスさまのために行動を起こしました。まことに十字架というものは、弱い者、臆病な者を、行動に駆り立てる大いなる力を持つものです。私たちは日々イエスさまの十字架を前にして、この世を雄々しく生き抜く力をいただく存在です。 <祈りの課題>私たちクリスチャンの結婚(の生活)が、人々に対して大きな証しを立てることができるように。

362 12月28日 Ⅱ歴33黙19マラ1ヨハ18

歴代誌第二33章……マナセ王は苦しみの中で主に立ち帰り、これまでの偶像礼拝を悔い改めました。そうはいっても、聖書全体のマナセに対する第一の評価は、偶像礼拝により南ユダ王国に破滅をもたらした張本人です。私たちにいかに悔い改めの機会が残されているからといって、悔い改めを先延ばしにして、いつまでたっても罪をやめないならば、その末路はどうなるでしょうか。私たちにもし今罪が示されているならば、時を移さず悔い改め、もはやその罪を犯すことのないよう、主の恵みとあわれみにすがる必要があります。 ヨハネの黙示録19章……地を腐敗させるものは淫行です。サタンは淫らなこと、いやらしいことを用いて、神のかたちに創造された人間たちを腐敗させ、自分の勢力に隷属させ、神さま、イエスさまから引き離し、やがて投げ込まれる定めの火と硫黄の池に道連れにします。私たちは滅びに至るサタンの、それでも人間の劣情に働きかけるその策略を知らなくはありません。この情欲と淫行という罪から私たち主の民が守られますように、私たちは祈って取り組む必要があります。 マラキ書1章……形だけの宗教儀式ももちろんいけませんが、だからといって、主の御前に礼拝をおささげする態度がおろそかになっていてはなりません。預言者マラキはいい加減な態度で礼拝をささげる祭司たちを激しく糾弾していますが、私たちも、イエスさまが身代わりになって十字架にかかってくださるほどに神に愛されている存在ならば、誠心誠意、神さまに礼拝をおささげしてしかるべきではないでしょうか。私たちの礼拝の態度が問われています。 ヨハネの福音書18章……ペテロは、いかに恐ろしくなったからとはいえ、人々の前で公然と、「(イエスさまの)弟子ではない」と言い放ちました。ペテロはその瞬間、弟子であることをやめたかのようでした。しかしイエスさまは、彼のことをご自身の弟子として再び立ち上がらせてくださいました。私たちは「魔が差す」ようにして主の弟子であることを否定してしまうこともあるものです。しかし、それで私たちは主の弟子ではなくなったわけではありません。サタンは私たちから言質を取るようにして主から引き離すことを試みますが、いかなる理由にせよ、主の愛から私たちが引き離されることはありません(ローマ8:38~39)。 <祈りの課題>サタンのあらゆる誘惑を超えた主の守りを体験し、さらに主に拠り頼...

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17

歴代誌第二32章……アッシリアのセンナケリブはその国の強大さを誇ることにおいて、愚かにも、創造主なる神さまと偶像に過ぎない神々を同列に置き、神さまは神の民を救い出すことなどできないとうそぶきました。主はそのような傲慢な者に対し、軍勢もろともさばきを下されました。まことに、どんな反キリストも主に敵対することはできません。ただ主に従順でありたいと願うのみです。 ヨハネの黙示録18章……反キリストはあらゆる富を掌握し、世界を支配しますが、やがて主に拠って完膚なきまでにさばかれます。私たちはともすると、この世の富や栄華に恋々とする思いを捨てきれず、その滅びを惜しむような思いになったりしないでしょうか。しかし私たちは、そのようなものに対してあこがれるような思いは一切捨てなければなりません。、私たちのすべき選択は「離れること」、これだけです。 ゼカリヤ書14章……終わりの日は世界の国々から主を礼拝する者たちが選ばれ、主のみもとに集められてきます。その日に至るまで地上には混乱と争いが絶えることはありませんが、ついには主が平和をもたらしてくださいます。私たちの待ち望むべきは、主がもたらしてくださる平和、そして世界中から礼拝者が集められた、終わりの日の究極の礼拝です。 ヨハネの福音書17章……イエスさまはこの世界に人となって来られましたが、この世の人ではありませんでした。私たちもこの世に生まれ育っていますが、イエスさまは私たちのことを、この世に属する存在ではないとおっしゃっています。私たちがイエスさまのみあとに従いたいと願うならば、この世と調子を合わせて生きることをやめなければなりません。私たちはこの世から贖い出された者として、心を一新して変えていただきながら生きる必要があります(ローマ12:2)。 <祈りの課題>私たちがこの世のあらゆる悪やけがれの正体を見分け、そこから離れるという選択をすることができますように。

360 12月26日 Ⅱ歴31黙17ゼカ13:2-9ヨハ16

歴代誌第二31章……ヒゼキヤは、公的な礼拝においてのみ主を礼拝したのではありません。自分の財産からもいけにえをささげています。これは主の民の霊的リーダーである献身者に対して非常に示唆に富む模範を示しています。献身者は公的な場のみが礼拝の場所ではありません。私的な場においても、いや、私的な場においてこそ、主の御前にふさわしい礼拝をささげるべきです。 ヨハネの黙示録17章……世の終わりには、地を支配する反キリストの権力者がほしいままに振舞います。この者たちは子羊キリストに戦いを挑みます。しかし、イエスさまは勝利します。それはイエスさまこそ王の王、主の主だからです。しかし世の終わりには、地上の権力こそがすべてと人々は惑わされるようになります。このとき私たちは、それでもイエスさまにお従いすることができるように、今から恵みを求めてまいりましょう。 ゼカリヤ書13章2節~9節……世の終わりとは、主の民が火の試練をもって試されるときです。そのときになると、反キリストの勢力が猛威を振るいます。しかしそのときは、主の民が自分の信仰を大いに証しするときとなります。その証しによって、世の中が何と言おうとも、主こそが礼拝すべき方であることが示されます。それでも主にお従いしないならば、それはその選択をした者の責任であり、その者は滅びを自分で選び取った、ということです。 ヨハネの福音書16章……今私たちがみことばの真理を学ぶことができているのは、真理の御霊、助け主を、御父と御子イエスさまが私たちのところに送ってくださり、御霊なる神さまが私たちに真理を教えてくださっているからです。御霊によって私たちは主のご臨在を体験し、主のお導きを体験しています。まことに、私たちキリスト者の歩みは、御霊に導かれ、御霊に満たされ、御霊とともに歩む体験です。 <祈りの課題>世の終わりに大迫害が予想されようとも、毅然として主にお従いする私たちとなることができますように。

359 12月25日 Ⅱ歴30黙16ゼカ12:1-13:1ヨハ15

歴代誌第二30章……ヒゼキヤは過越の祭りを祝うことをユダのみならず、「べエル・シェバからダンまで」、南北イスラエル全体に呼び掛けました。いかに北イスラエルはもはや神の国といえる状態になく、その結果ヒゼキヤの呼びかけがあざ笑われるようなことになっても、ヒゼキヤはイスラエル全体の回復の鍵は主との関係にあることを心に留め、祭りを進めました。この、不可能を可能にする主に拠り頼むリーダーシップこそ、この時代の教会に必要とされているものではないでしょうか。 ヨハネの黙示録16章……滅びに定められている人間は、神の怒りとさばきにあってもなお、神の御名を冒瀆するものです。私たちは世の終わりに至るまで人々が救われることを祈り求め、そのために伝道と宣教を欠かしてはなりませんが、そのように聖なるもの、真珠のような宝の教えを、けだもののような態度で踏みにじる者たちに対しては、神さまご自身が見切りをつけられる、すなわち、宣教と伝道というものは最終的に、主の主権のもとにあることを、私たちは認める必要があります。 ゼカリヤ書12章1節~13章1節……イエスさまを十字架につけるユダヤ人(ユダ)に対する預言です。彼らはイエスさまを十字架につけて殺しますが、それゆえに激しく嘆くという、矛盾のような感情が描かれています。しかし、私たちの罪はどのようにして贖われるかを考えるならば、それは矛盾ではありません。私たちは、イエスさまを十字架につけて殺すほどの罪人ですが、そんな罪人を十字架の上で赦してくださるのですから、そのようなイエスさまのお姿を見て、私たちは激しく嘆くのです。 ヨハネの福音書15章……世というものは、イエスさまのみことばとそのみわざを前にして、なおイエスさまを否定するばかりか、イエスさまの弟子たちに激しい迫害を加えます。それが、私たちがとどまっている世というものの正体であり、私たちは愛されようと、この「世」というものの友となろうとしてはなりません。それは主に敵対することになります。私たちは終わりの日に、イエスさまに認められていのちを得たいでしょうか、世に認められて滅びる者となりたいでしょうか。 <祈りの課題>厳しい目にあっても、いのちに至る道を選択させていただく私たちとなりますように。